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趙紫陽

1987年、胡耀邦失脚後に中国共産党総書記に就任。89年、第2次天安門事件が起きると、学生がわに理解を示したことを非難され、鄧小平によって辞任に追いこまれた。

 ちょうしよう 1919-2005 鄧小平に協力し、その改革開放路線の実際面を胡耀邦ともに支えた。1982年、胡耀邦が総書記になると、学生や知識人が、経済活動の自由だけではなく、政治活動の自由、複数政党制などを要求するようになり、改革が政治の民主化にも及ぶ動きが出はじめた。鄧小平はそのような動きを抑えるため、87年、胡耀邦を辞任させ、趙紫陽を起用して総書記にした。
 このように政治的実権を鄧小平が握る中、89年、胡耀邦の死を悼む市民学生が北京の天安門に集まると、集会は政府を批判する大規模なデモに転換した。趙紫陽は自ら天安門に赴き、学生の声を聞き、暴動の沈静化に努めたが、「来るのが遅すぎた」と言い残して帰った。鄧小平政権は中国人民軍を動員して群衆を鎮圧、この第2次天安門事件を学生らの起こした暴動と見做して、趙紫陽はその沈静化に失敗した責任を取って辞任に追いこまれた。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
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