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天安門事件(第2次)

1989年5~6月、中国の鄧小平政権の人権抑圧に不満を持つ民衆が決起したが政権は軍隊を出動させて弾圧、中国の人権抑圧にたいする国際的非難が強まった。

 1989年5月に鄧小平政権下の中国政府による政治活動、人権、言論弾圧に対する抗議として始まった北京の民衆による民主化運動。中国政府は戒厳令を敷いて6月には市民を弾圧、国際的な批判を受けた。

背景と経緯

 同年4月、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催したが、「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などを叫ぶ民主化一般の運動へと拡大していった。鄧小平は学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」と決めつけたが、学生はこの当局の決定に反発、また趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、党内の対立(鄧小平ら長老派、李鵬ら保守派と、趙紫陽ら改革派)が表面化した。五月上旬から中旬にかけて、運動は拡大し天安門広場で百万人といわれる大集会が開かれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。(ちょうどこのとき、ソ連のゴルバチョフが訪中していた)。5月18日、趙紫陽は天安門に自ら赴き、学生たちと面会し「来るのが遅かった」という言葉を残して、以後、公の場から姿を消した。
第2次天安門事件
第2次天安門事件 戒厳令下の北京で、軍の戦車隊の前に一人の青年がたちはだかって抗議した。

戒厳令

 5月20日、建国史上初めて首都北京に戒厳令が施行された。これに対して学生・市民らは当局の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに人民解放軍への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。戒厳令施行から約二週間、当局は鎮圧行動に出ることができず、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、鄧小平は一切の妥協を拒否した。6月3日未明ついに戒厳令部隊が出動して抵抗する学生・市民に発砲、その死者は4日までに一説では2000名前後、その後の当局の発表でさえ、軍側も合わせて死者319名、負傷者9000名に達した。活動家の多くが捕らえられ、あるいは国外に逃亡した。一般の人々は口をふさいでしまい、再び重苦しい中で日々を送ることを余儀なくされた。

影響と意義

 この事件は「六・四事件」ともいわれ、おりからのゴルバチョフ訪中にあわせて北京に来ていた外国報道機関によって世界中のテレビに民衆弾圧の映像が流され、「民主主義への挑戦」「人権弾圧」と受け止めたアメリカなど西側諸国は、中国に対する「経済制裁」を課すことを決め、日本も同調して第三次対中円借款供与を中断した。中国はこれを内政干渉と反発、「中国の改革開放路線は不変である」と力説した。おりからの東欧革命の進行、11月のベルリンの壁の開放も中国への国際圧力を強めることとなった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによるまとめ> 
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