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胡耀邦

1980年、中国共産党の総書記として改革開放路線を推進したが、鄧小平と対立し、87年に失脚。89年4月、その死をきっかけに学生・市民が決起し第2次天安門事件が起きた。

 こようほう。1915-89 戦前からの共産党員で幹部養成機関である共産主義青年団の出身であったが、文化大革命で失脚。1978年に文化大革命の終了とともに、鄧小平が復権すると、その改革開放路線を進める片腕として協力、79年に政治局員に抜擢されて趙紫陽とともに鄧小平政権を支えた。<以下、天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>

改革開放経済を推進

 1982年に中国共産党は集団指導体制を確立する意味から主席制を廃止して総書記制を導入、胡耀邦が総書記に就任した。鄧小平は表に経たなかったが、総書記の胡耀邦と国務院総理の趙紫陽を従えた「鄧胡趙トロイカ体制」とも呼ばれた。この鄧小平政権の下での人民公社の解体や経済特区の設置などの改革開放路線は、社会主義市場経済の導入によって具体化されたが、それらは胡耀邦が重要な役割を果たした。

民主化に理解を示し、解任される

 この経済自由化への転換は、当然政治の民主化も伴うものと学生・知識人は期待し、共産党一党独裁の見直し、政治的発言の自由を求める声が強くなった。しかし、鄧小平は「四つの原則」を曲げることには応じず、政治改革の言論を厳しく取り締まるようになった。そして1987年、鄧小平は突然。胡耀邦総書記が「民主化を主張する知識人・学生に対し軟弱な態度を取った」として責任を取らせ、辞任に追いこんだ。

死後、第2次天安門事件が起きる

 1989年、胡耀邦が病死したことが伝えられると、彼を追悼する集会が北京の天安門で開催された。集まった学生・市民は政治活動の自由を認めない鄧小平に対する怒りを爆発させ、騒乱状態となった。胡耀邦に代わって総書記となっていた趙紫陽は学生の要求を聞こうとしたが、暴動化した群衆を説得することはできず、ついに中国人民軍が出動し、暴動は鎮圧された。鄧小平は、事件を「動乱」ときめつけ、趙紫陽を学生運動を抑えられなかった責任をとらせ、辞任させた。これが第2次天安門事件であり、鄧小平の改革が経済の自由化に限ったものであり、政治の自由かは否定され、共産党独裁の元での改革開放という方向が明確になって終わった。辞任した趙紫陽に代わって江沢民が総書記となり、鄧小平路線が継承された。

News 胡耀邦の再評価

 2002年に中国共産党総書記になった胡錦濤は、胡耀邦と同じく、共産主義青年団(共青)出身で、かつて地方官だった時代に接点があったことから同情的とみられている。天安門事件から21年経った2010年には首相の温家宝が胡耀邦追悼の文を党機関紙人民日報に寄稿し、注目を浴びている。胡錦濤は表面には出てこないが、胡耀邦復権につながるかもしれない。しかし、天安門事件で失脚した趙紫陽についての再評価の動きはない。胡錦濤の次の当職と見做されている習近平も共産主義青年団であるが、胡耀邦再評価は政治活動の自由を認めることになりかねないので、表だって評価に変化はないだろうと考えられる。た行われることはないだろう。<朝日新聞 2010年6月4日の記事による>
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天児慧
『中華人民共和国史』
1999 岩波新書