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社会主義市場経済

1992年、中国で採用された社会主義のもとで市場経済を導入する経済体制。1980年代に共産党一党独裁を維持しながら改革開放政策を進め、1989年の第2次天安門事件で民主化運動を弾圧した鄧小平政権がさらに実質的な資本主義化をすすめようとした。矛盾をはらみながら、1990年代に中国の経済を急成長させた。

第2次天安門事件

 中華人民共和国は1978年に鄧小平のもとで、「改革開放政策」を取ることに舵を切り、一定の経済の自由化に着手した。経済自由化が進めば、当然政治の民主化の要求も高まる。社会不安の中で共産党一党独裁に反対し、多党化や三権分立などを要求する声が強くなったが、鄧小平はそれらの批判は一切受け付けないという姿勢を崩さなかった。そのような鄧小平政権に対する不満が爆発したのが、1989年6月4日第2次天安門事件であった。鄧小平はアメリカを初めとする諸外国から、その人権抑圧を厳しく非難され、アメリカが経済制裁を加えるなど、貿易にも悪影響を及ぼし、中国経済は大きな危機に陥った。

鄧小平の南巡講話

 第2次天安門事件は中国共産党と鄧小平の強権的な姿勢に対する国際的な非難が巻き起こり、欧米、日本も経済協力もストップし、その改革開放路線は大きな試練を迎えることになった。このとき鄧小平は、この危機を乗り越えるには改革開放路線を停止したり修正したりするのではなく、さらに一段と推進することによって豊かさを実現して国民の支持を受けるしかない、と決心した。1992年1月~2月、改革開放の先進地域である深圳、珠海、上海などを歴訪して、各地で改革開放を徹底して進めよ、と檄を飛ばした。この時の鄧小平のことばは「南巡講話」としてまとめられたが、それには次のような一節があり、鄧小平が社会主義市場経済をどう考えていたか、判りやすく述べられている。
(引用)「計画が多いか少ないかは、社会主義と資本主義の本質的な違いじゃない。計画経済≑社会主義じゃないし、資本主義にだって計画はある。逆に、市場経済イコール資本主義じゃない。社会主義にだって市場はある。社会主義の本質は、最終的にみんなが豊かになることじゃないのか。」<毛利和子『現代中国政治を読む』世界史リブレット51 1999 山川出版社 p.23>
 つまり鄧小平は計画経済と市場経済は二者択一なのではなく、国民を豊かにするためにはその両者の良いところを合わせて取り入れるべきだ、と考えたのだった。そしてこの南巡講話を契機に経済特区での外国資本も含めた投資ブームが爆発的に起こり、中国経済の急成長が始まる。

社会主義市場経済論

 1992年10月、中共第14回全国大会を開催、鄧小平が南巡講話で示した基本路線を踏襲し「社会主義市場経済」を積極的に導入することを決定し、人事では江沢民は総書記を続投、国務院総理(首相)の李鵬は計画経済論者で保守派であったが、副総理に朱鎔基が就任した。朱鎔基は江沢民の後に上海市長を務めた人物で、市長時代に「改革開放をさらに進めることが上海経済の苦境脱出の唯一の途である」と表明し、長江対岸の浦東地区の開発への国家支援を実現させた。「開放なくして発展なし」という鄧小平の思想を最も理解し、成功させた党官僚だった。1993年春から李鵬が病気で職務から離れると、朱鎔基が経済政策決定の主導権を握り、金融と財政のマクロコントロールに乗り出し11月の共産党第14期三中全会において「社会主義市場経済体制確立の若干の問題に関する中共中央の決定」を出し、国税と地方税を分ける近代的税制の導入、資本主義国家と同じ企業制度、銀行や投融資制度、国有企業の株式化、外国貿易など、社会主義市場経済の運用ルールを定めた。
 依然として保守的な計画経済論者とその勢力も残っており、中央統制の枠を残し、第8次五ヶ年計画も進行中であったが、この江沢民-朱鎔基のポスト鄧小平路線は、明確な社会主義市場経済を目指したものであった。
西欧型資本主義との違い 「社会主義市場経済」とは結局のところ「社会主義」を棚上げして資本主義に切り替えたとも見えるが、中国共産党は社会主義の看板を下ろしたわけではない。そこがわかりづらいところだが、鄧小平が言っているように、彼らは社会主義つまり計画経済と資本主義つまり市場経済は矛盾しないと、考えている。計画経済の中に市場経済を取り入れ、市場経済も放任するのでなく国家がマクロベースでコントロールする、ということであり、その面では近代資本主義国家でも国家が経済政策をもっているのと何ら異なることはない。違っているとすれば、計画経済と市場経済のバランスで、中国型社会主義市場経済は前者の比重が重く、西欧型資本主義国(日本を含む)では後者が重い、ということか。ただ、その後の中国は国営企業の民営化もどんどん進んでおり、ほとんど西欧型に近くなっている。はっきりとした違いは中国では依然として共産党の一党支配のもとで市場経済が動き、成長が続いている、ということである。
開発独裁との近似 共産党一党支配という政治のもとでの1980年代以降の改革開放路線、さらに90年代以降の社会主義市場経済によって中国経済の成長が続いていることを、どのように理解すべきなのだろうか。現在の説明で良く見られるのが、それらを1970年代に台湾や韓国、シンガポールなどがとった「開発独裁」の手法と変わるところがない、という見方であろう。「開発独裁」は「経済成長のためには政治的安定が不可欠であるとして独裁を正当化している体制」、ないしは「経済発展によって正当性を担保する政治権力」なのであり、台湾の国民党独裁政権、韓国朴正煕軍政、フィリピンのマルコス独裁、インドネシアのスハルト体制などに典型的に見られる。
 中国の場合も「極論すれば、共産党と名乗るか国民党と名乗るかの違いだけのように見える」のであり、「ポスト鄧小平時代は、経済成長を約束することでしか共産党の一党支配を正当化できなくなった」状態は、共産党は「もはや革命や変革をめざすイデオロギー集団ではない」といわれている。<毛利『同上書』 p.25-26/唐亮『現代中国の政治―「開発独裁」とそのゆくえ』2012 岩波新書>

中国の経済超大国化

 現在の中国は、社会主義を標榜し、共産党一党独裁の政治体制は維持しているているものの、その実態は社会主義とも共産主義ともまったくかけ離れ、「限りなく資本主義に近い」状態にあり、またその人的資源から世界経済の中心になる勢いを示しており、2001年には世界貿易機関(WTO)に加盟した。さらにアメリカとの貿易関係でも出超に転じ、ドルとのバランスが崩れたところから、2005年には中国の通貨の元を切り上げるに至った。そして、2010年に日本を抜いてGNP第二位となり、第一位のアメリカと対抗するまでになった。
蛇足 2000年代になるともはや社会主義市場経済ということばは聞かれなくなり、最近の習近平政権化では「中国型社会主義」とか「現代的社会主義」といわれているらしい。中国は経済システムでは資本主義の超大国となんら変わるところがなくなっているが、その特異性はただ一つ、中国共産党という巨大な政権党のコントロール下にある、ということだけであろう。資本主義の二つの潮流とされるアダム=スミス以来の自由主義経済(それを復活させた新自由主義)とケインズ的な修正資本主義(近代政党によって政策的に統制されたニューディール的な経済)とのいずれにもあてはまらない、国家統治型資本主義(あるいは大型開発独裁型資本主義)の壮大な実験(失敗するかも知れない)を我々は目の当たりにしているといえるだろう。 → 現代の中華人民共和国

参考 社会主義市場経済に対する批判

 中国は文化大革命の後、市場経済導入に邁進し、1990年代に急成長、2010年代についに日本を抜いて世界第二位の経済大国になった。文化大革命の始まり(1966年)から約半世紀での大変身であるが、それを文化大革命で否定されたはずの資本主義と見て良いのだろうか。文化大革命が何をもたらしたか、ついて次のような指摘がある。
(引用)文革は毛沢東、造反派、官僚集団が織りなしたトライアングルのゲームであり、このゲームの最後の結末では官僚集団こそが勝者となった。敗者は毛沢東であり、敗者のツケを払わされたのが造反派というわけである。毛により「腐った国家機構をがたがたに壊す」道具にされ、官僚集団をたたく石とされた造反派は、最終的にはこの回転を止めることのない官僚機構によって粉々に砕かれてしまったのだった。<楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.224>
 文革後に復活を遂げた官僚集団が権力を握ることで造り出されたのが「社会主義市場経済」ではないのか。その本質は権力=官僚がコントロールする市場経済、つまり権力市場経済体制である。権力市場経済体制下の中国では、何事かに成功できるか否かは、才能ではなく、権力を握る重要人物との関係によって決まる。権力者との関係は重要な社会資本であり、それは官僚選出のブラックボックスとブラックネットワークで決まる。公正な取引ではなく社会正義に反した関係は腐敗の温床となっていく。<楊継繩『同上書』 p.188>
(引用)「革命において功績があり、文革で苦しめられ、改革で権力を得た」、要するに、毛は静かに水晶の棺に横たわり、造反派は地獄のどん底に突き落とされ、官僚たちは願いがかない有頂天でやりたい放題であるということである。彼らは百計をめぐらせて民主の進行を阻止し、選択的に市場メカニズムを導入した。三十年の改革は「社会主義市場経済」と名付けつつ、実質は「権力市場経済」の制度を作り上げ、権力が市場を支配、コントロールした。大小の権力の中心は強力な吸引力をもつブラック・ホールとなって、社会の財富を権力と親密な関係がある社会集団に吸い寄せるのである。権力市場経済の最も根本的な問題は不公平であり、不公平な社会は調和のとれたようにはできない。権力市場経済の下で権力の濫用と資本の悪質な貪欲とが結合してこの社会の一切の罪悪の巣窟となってしまった。<楊継繩『同上書』 p.229-230>
 この現代中国の体制を厳しく批判している著者楊継繩は1940年に湖北省に生まれ清華大学で文化大革命・紅衛兵運動に加わった。68年新華社通信記者となりつぶさに文革と文革後の中国を取材した。2001年退社後雑誌編集者となり、民主化を掲げて雑誌『炎黄春秋』発刊に関わる。その後も文革と中国政治に関する発言を続けたが、そのするどい政府批判が当局によって問題とされ2015年、雑誌は廃刊に追いこまれた。現在は活躍の場を香港に移している。彼は、文革後に復活した官僚集団(その頂点は鄧小平―江沢民-胡錦濤-習近平と推移した)の進める「権力市場経済」を批判しその弊害を打破するには立憲民主制度が必要であると結論づけている。
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書籍案内

天児慧
『中華人民共和国史新版』
岩波新書

毛利和子
『現代中国政治を読む』
世界史リブレット51
1999 山川出版社

唐亮
『現代中国の政治
開発独裁とそのゆくえ』
2012 岩波新書

高原明生・前田宏子
『開発主義の時代へ』
シリーズ中国近現代史⑤
2014 岩波新書

楊継繩/辻康吾編訳
『文化大革命五十年』
2019 岩波書店