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イスラエル

1948年5月、国際連合のパレスチナ分割決議に従って建国を宣言したユダヤ人国家。反発したアラブ連盟との間でその後四次にわたる中東戦争を戦い、領域を拡大しているが、対立はさらに激化している。

・ページ内の見だしリスト
・ここでは現代のイスラエルのみを取り上げる。それ以前の関連事項は次を参照。

(1)建国とパレスチナ戦争

イスラエルの建国

イスラエル国旗

イスラエル国旗
すでに1897年の第1回シオニスト会議でシオニスト運動の旗として採用されており、1948年の独立によって国旗とされた。中央の星はダビデの星(六芒星)といわれるユダヤ人の象徴。

 パレスチナの地にヨーロッパ各地から移住してきたユダヤ人が、アラブ人との対立を深めパレスチナ問題が深刻になると、第一次世界大戦以来この地を委任統治していたイギリスがその期間満了を機に国際連合に解決を一任した。
 その結果、1947年の国際連合総会において、パレスチナ分割案勧告決議が成立した。それは、パレスチナの地を二分するが、両者の区域が混在する複雑な区分であった。ユダヤ人はそれを受け入れて、1948年5月14日にイスラエルという新国家を建設し独立宣言を行った。初代首相はベングリオン。イスラエルの建国は、19世紀後半に起こったシオニズムの帰結であった。ユダヤ人は古代のパレスチナがローマの属州になって滅亡し、ユダヤ人が離散してから約2000年を経て、ようやく民族の国家を再建したこととなり、そのことを旧約聖書の「出エジブト」(エクソダス)に喩えている。

パレスチナ戦争の勃発

 イスラエルの独立宣言とともに、周辺のアラブ諸国からなるアラブ連盟はそれを認めず、一斉にイスラエル領内に侵攻し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。イスラエル側はこの戦争を「独立戦争」と称している。イスラエル軍はアラブ諸国の歩調の乱れに乗じて個別に休戦協定を結び、国連のパレスチナ分割案よりも広い領域を占領し、独立を確保、さらに国際連合に加盟して国際社会に承認された。 → 中東戦争
 イスラエルは、聖地イェルサレムを首都と定めたが、旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンの支配下に置かれ、「嘆きの壁」に近づくことはできなかった。イスラエルは1967年の第3次中東戦争でイェルサレム全域を実効支配するに至り、1980年には改めて首都であることを宣言して国会、政府機構を移転させた。しかし、アメリカを初め国際社会はイェルサレムをイスラエルの首都と認めておらず、大使館などはテルアビブに置いている。

イスラエル (2)中東戦争

1948年、パレスチナに建国されユダヤ人多数が移住しアラブ人との対立強まり、70年代までに4度の中東戦争を戦う。

ユダヤ大移民時代

 1948年、パレスチナ戦争(第1次中東戦争=イスラエルから言えば独立戦争)で勝利したイスラエルは、それまでのヨーロッパ各地からだけではなく、中東地域からも多数のユダヤ人が移住してきた。1948年から51年までを「ユダヤ大移民時代」とよび、人口は70万から140万に倍増した。しかし、ユダヤ人と言っても、戦前のヨーロッパからナチスドイツの迫害を逃れてパレスチナに移住していた「アシュケナージム」と言われる人々と、建国後にアジア・アフリカ地域かあ移住したユダヤ人との間に、貧富の格差が大きくなり、経済危機が広まった。イスラエルには戦前の入植時代からロシア系ユダヤ人によって社会主義的集団農場であるキブツが作られ、移住者を吸収し、独特の生産と軍事的性格を持つ制度として存在していた。

第3次中東戦争の勝利

 イスラエルはアメリカ・イギリスからの支援と、西ドイツからの賠償金で経済を維持していたが、一挙に国内の不況を解決したのが、1967年の第3次中東戦争であった。この戦争でヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)、ガザ地区シナイ半島ゴラン高原を占領、積極的に入植者を送り込んだ。このイスラエルの建国と領土拡大に伴い、多くのパレスチナ人が難民となって周辺に移住した。その中からパレスチナをイスラエルから解放することをめざすパレスチナ解放機構(PLO)との激しい対立が始まった。

第4次中東戦での苦戦

 1973年10月6日、エジプト大統領サダトシナイ半島での軍事行動を指令、呼応したシリア軍はゴラン高原でも、一斉にイスラエル軍占領地域への攻撃を開始した。不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、中東戦争で初めて敗北、後退を経験した。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。
 この第4次中東戦争はイスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。イスラエルにとっては緒戦の敗北という衝撃を受けたが、アラブ諸国が石油戦略を採用し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエル支援国に対する原油の販売停止又は制限したことによって石油危機(第1次オイル=ショック)が起きるという、より大きな影響を与えた。

エジプト=イスラエル和平

 しかし、より大きな衝撃に襲われたのはエジプトの大統領サダトだった。勝利寸前までいったイスラエルとの戦争で逆転を許し、最後は敗れたという事実から、最終的には和平を実現するしかないという方向に大きく舵を切ったのだった。1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し交渉相手として和平交渉に入ることを表明、ついで翌78年、アメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平を実現し、1979年にエジプト=イスラエル平和条約が成立し、イスラエルはシナイ半島を返還した。
 これによって他のアラブ諸国もイスラエルの存在を認め、その消滅をめざすのではなく、共存していくしかないという姿勢に転換した。しかし、パレスチナのアラブ難民の存在は無視されることとなるとして、パレスチナ難民とパレスチナゲリラは激しく反発、パレスチナ解放機構(PLO)は激しいテロ活動に転換する。言いかえれば、イスラエルにとっての敵はPLOだけだという状況が作り出された。 → パレスチナ問題(1980年代)

イスラエルのレバノン侵攻

 PLOは次第に追いつめられ、その本拠をレバノンに移した。1982年、イスラエルのベギン政権は、世界の目がイラン=イラク戦争や、フォークランド戦争にむけられているとき、パレスチナ=ゲリラの対イスラエル=テロを根絶することを口実にレバノン侵攻を強行した。これは第五次中東戦争とも言われることがある。シャロン国防相が指揮するイスラエル軍はベイルートなどを軍事占領、その結果、PLOはチュニスに撤退し、その力を大きく失うこととなったが、このときイスラエル軍に呼応したレバノン国内のマロン派キリスト教徒による、パレスチナ難民キャンプのアラブ人に対する虐殺行為が行われ、イスラエルに対しても厳しい批判がまき起こり、ベギン首相とシャロン国防相は退陣しなければならなくなった。

イスラエル (3)中東和平の混迷

4次に渡る中東戦争を耐え抜いたイスラエルは、パレスチナを占有する国家として国際的に承認されることとなった。それにたいするパレスチナ=ゲリラの抵抗も激しかったが、ようやく80年代終わりにPLOも二国共存路線に転換、和平が進展した。しかし、イスラエルは領土拡張、軍備強化路線を転換させず、パレスチナなど周辺のアラブ諸国の反発も続いており、現在も世界の最も深刻な不安定要素となっている。

PLOの方向転換

 1987年にはイスラエルの支配するガザ地区でパレスティナ人の自発的な抵抗運動インティファーダ(第1次)がもりあがる中、PLOのアラファトは1988年に国連で演説し、パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸ガザ地区に限定した「ミニ国家」を建設することを中心としたイスラエルとの和平交渉に入ることを提唱した。これはパレスチナにおけるに二国家共存をめざす、大きな転換であり、イスラエル側もその受容に傾いた。

冷戦終結後の中東

 しかし、1989年に始まる東欧革命は、ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊をもたらし、ついには冷戦の終結宣言がなされるに至った。さらにソ連が崩壊したことは、中東情勢にも大きな影響を与えた。米ソの対立という対立軸が失われた冷戦後の世界は、新たな秩序を生み出すのではなく、世界情勢の混迷を生み出し、各地に独自の行動が始まった。イラクのフセインがウエートを侵略したのもそのあらわれであり、それに対して国際連合が機能せず、1991年の湾岸戦争でアメリカ軍を主体とした多国籍軍が侵攻し、勝利者となったことで、中東においてもアメリカの主導権が強まり、それに対する抵抗の動きが新たな対立軸となっていった。

湾岸戦争と和平機運の高まり

 1991年の湾岸戦争で、イラクサダム=フセイン大統領は、リンケージと称してパレスチナ問題と関連付け、アラブ諸国の同調を得ようとしイスラエルにミサイル攻撃を行った。イスラエル国内は隣接していない国からの空爆に怯えてパニックに陥り、防毒マスクが飛ぶように売れた。イスラエル軍がイラクに反撃すれば、フセインの思惑どおりアラブ諸国が反イスラエル=アメリカ連合との戦いに同調し、世界戦争に拡大する恐れがあったが、アメリカは強くイスラエルに自重を求め、イスラエルは反撃しなかった。
マドリード会議  この危機を経たアメリカとイスラエルは、従来のエジプト=イスラエル平和条約のようなものではなく、中東諸国を含む広範な集団安全保障の必要を自覚し、中東和平を前進させることをめざした。そのようなアメリカが主導して開催されたのが、1991年10月のマドリード中東和平会議だった。この会議にはアメリカなど主要国とともに当事国としてイスラエルが参加、そしてパレスチナ人がヨルダンとの合同代表団に加わるという形で参加し、イスラエルとパレスチナ人代表(PLOは除外されていたとはいえ)が国際会議で初めて顔を合わすこととなった。
 しかし一方の当事者パレスチナ解放機構(PLO)は、湾岸戦争でサダム=フセインのイラクを支持したことから、他のアラブ諸国から非難され、その国際的な地位を低下されていた。そしてマドリード会議にもパレスチナ代表として認められず招聘されなかった。PLOのアラファトはこのような劣勢をはね返すために、大胆な転換を図り、密かにオスロで進められていたイスラエルとの交渉で起死回生を賭けた。酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.105-107
オスロ合意 1993年にノルウェーの仲介でPLOとイスラエルの当事者間の話し合いが初めて行われ、中東和平に関するオスロ合意が成立し、アメリカのクリントン大統領のもとでPLOアラファト議長とイスラエルラビン首相(労働党)の両代表が握手しパレスチナ暫定自治協定が成立、94年にパレスチナにはパレスチナ暫定自治行政府(実体はPLO)が設立されることになった。

対立の再燃

 しかし、湾岸戦争でのアメリカ軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラーム原理主義運動が盛んになり、PLOの和平路線に反発する新たな勢力としてハマスが台頭した。イスラエルでは1995年に和平推進派の労働党ラビン首相が暗殺され、右派のリクードが急速に台頭、2000年にはリクード党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教神殿への立ち入るという行動をとり、反発したパレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こった。シャロンは翌年には首相となり、右派リクードを率いて対パレスチナ強硬路線が強まった。

パレスチナ問題の混迷

 2001年9月、アメリカでの同時多発テロが起こるとシャロン政権はアラブ過激派の行為と断定、その背後にあるとしてPLOに対する対決姿勢を強め、ヨルダン川西岸にいたアラファトを事実上軟禁状態にした。
 一方アメリカはイラク戦争を遂行する上でその大義のためにはパレスチナ和平を進める必要があり、2003年ブッシュ(子)大統領が仲介してシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバス首相の間を仲介し、中東和平ロードマップを作成、国連もそれを支持した。シャロンもガザ地区からの撤退を推進することに転じた。
 このシャロンの姿勢転換にリクード内部からの非難が強まると、シャロンは2005年、リクードから分離し中道政党カディーマを結成した。

強硬姿勢への転換

 イスラエルはガザ地区からの入植者の撤退を表明、2005年8月にそれを実現させた。しかし、さらに広大なヨルダン川西岸地区のイスラエル占領地区ではユダヤ人の入植と、入植地を守るための壁の建設が進められており、対立はかえって激化することとなった。
 パレスチナではイスラーム原理主義の影響を受けたハマスが台頭し、2006年のパレスチナの総選挙で第1党となり政権を担当するようになった。イスラエルではガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が2006年1月に脳卒中で倒れ、国内での右派の発言力が強まり、同年8月にはイスラエル軍がレバノン南部を実効支配しているシーア派民兵組織ヒズボラのテロ活動を排除するという理由でレバノン南部に侵攻した。2008年以降、特にガザ地区をめぐっての緊張が深まった。
 2009年3月にはリクードの党首右派のネタニヤフが首相となり、パレスティナのハマスやイランなどの反イスラエル勢力との対決、ゲリラ攻撃に対する徹底した反撃などの強硬路線をかかげている。

核武装疑惑

 イスラエルは周辺をアラブ諸国に囲まれているところから、高度の軍事国家として装備を最大限現代化している。その核武装については、一切明らかにしていないが、保有は公然の秘密とされている。イスラエルとしては、イランに核武装の疑惑がある以上、自衛のための核保有は当然と意識しているのであろう。そのため、1968年に締結され70年に発効した核拡散防止条約(NPT)には加わっていない。
 2015年の国連における核拡散防止条約再検討会議において、アラブ諸国が中東の非核交渉開始を提案したことに対して、アメリカが反対したのは、同盟国イスラエルの核保有が明るみに出ることを恐れたためと考えられており、オバマ大統領の非核構想の二枚舌性が露呈した格好となっている。
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ノートの参照
第16章1節 エ.南アジア・アラブ世界の自立
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高橋正男
『物語イスラエルの歴史』
2008 中公新書

古代イスラエル、ツィオニズム運動までが中心で、記述も2003年まで。