ティルス
東地中海岸のフェニキア人の拠点となった都市の一つ。西地中海に植民市カルタゴを築いた。アレクサンドロス大王や十字軍の攻撃に激しく抵抗した。
ティルス Tyrus は、テュロスまたはティールとも表記。現在のレバノンの地中海岸に栄えた都市で、フェニキア人が建設し、やゝ北に位置するシドンとともに強力な海軍を要して地中海進出の拠点とされた。現在の地図帳ではスールとして記載されている。
もとは島だったティルス 現在のスールの地図を見ると、大陸から突き出た半島状の土地に街が造られているが、かつてフェニキア人の都市ティルス(テュロス)として栄えていたころは、大陸から切り離された島に市街地が造られていた。この島にあったのでティルスは外敵から守られていたわけだが、アレクサンドロス大王は陸地側から突堤を築いてティルスに迫り、ついに落とした。その突堤に沿って砂州ができて陸地となり、現在では陸続きの島(陸繋島)になったという。つまり、江ノ島のようだと思えば良いのでしょう。<佐藤育子「フェニキアの台頭」『通商国家カルタゴ』興亡の世界史 2009 講談社 後、2016 講談社学術文庫 p.86>
ティルスは636年に正統カリフ時代のカリフウマルの時に、アラブ人に破壊されて繁栄が終わったとされるが、実際にはアラブの拠点都市として存続しており。11世紀以降は、十字軍との攻防の舞台となっている。しかし、ティルスの市街地の中心はかつて島であったところから大陸側に移り、かつて繁栄した市街地は、現在は遺跡として残るのみとなっている。
もとは島だったティルス 現在のスールの地図を見ると、大陸から突き出た半島状の土地に街が造られているが、かつてフェニキア人の都市ティルス(テュロス)として栄えていたころは、大陸から切り離された島に市街地が造られていた。この島にあったのでティルスは外敵から守られていたわけだが、アレクサンドロス大王は陸地側から突堤を築いてティルスに迫り、ついに落とした。その突堤に沿って砂州ができて陸地となり、現在では陸続きの島(陸繋島)になったという。つまり、江ノ島のようだと思えば良いのでしょう。<佐藤育子「フェニキアの台頭」『通商国家カルタゴ』興亡の世界史 2009 講談社 後、2016 講談社学術文庫 p.86>
ティルスの歴史
ティルスのフェニキア人が前814年ごろ、アフリカ北岸に建設した植民都市がカルタゴである。そのころ本国のティルスはアッシリアに征服されたが、その後復興し地中海貿易で繁栄した。前6世紀前半には新バビロニア王国のネブカドネザル2世によって13年にわたって包囲され、陥落した。しかし、次にこの地に支配を及ぼしたアケメネス朝ペルシア帝国は、フェニキア人の交易活動を保護したので、ティルスも繁栄を取り戻した。この時期にはティルスなどのフェニキア人はペルシアと結び、ギリシア人の地中海での商業活動での覇権を競っていた。そのため、前332年にはマケドニアのアレクサンドロス大王に攻撃されることとなり、9ヶ月にわたって抵抗したが、陥落した。Episode 「ティルスの紫」
フェニキアでは古くから紫染料の生産と染色産業がさかんだった。原料は小さな骨貝の一種から採取する腺分泌物で、微量であるため高価だった。特にティルス付近で採れる骨貝は上等で、その占領は「ティルスの紫」と呼ばれ、高価なので「皇帝紫」ともいわれた。ティルスはエジプトやウガリトとも密接な関係をもち、早くから東地中海交易に乗り出していた。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.100-101>アレクサンドロス大王の侵攻
アレクサンドロス大王のマケドニア軍は、ペルシア帝国中心部に侵攻する前に東地中海沿岸を確保するため、フェニキア人諸都市に開城を迫った。ほとんどの都市が自ら開城したのに対し、ティルスだけはそれを拒否した。ティルスを放置するとその強力な海軍力が危険な存在となると見たアレクサンドロスは前332年1月、総攻撃を開始した。ティルスは陸から800m沖合の島に堅固な城砦をめぐらした要塞都市だった。アレクサンドロスは大量の木材と土砂を投入して突堤を築き、その先端に攻城兵器を据えて攻撃、ティルス側は船を繰り出して抵抗した。ところが他のフェニキア人とキプロス人がペルシアから離反しアレクサンドロス側に帰順し、アレクサンドロス軍に加わってティルスを封鎖した。9ヶ月に及ぶ包囲戦の末、アレクサンドル軍が南側の城壁を破って侵入し、容赦ない殺戮を行った。殺されたティルス人は8000人、奴隷に売られたものは3万人に及んだという。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.122>イスラーム勢力の進出
ヘレニズム時代にはセレウコス朝シリアの支配下に入ったが、前1世紀中頃はローマの属州シリアの州都とされた。その後、ローマ帝国・ビザンツ帝国の長い支配を受けた後、7世紀にイスラーム勢力のアラブ人が進出してきた。ティルスは636年に正統カリフ時代のカリフウマルの時に、アラブ人に破壊されて繁栄が終わったとされるが、実際にはアラブの拠点都市として存続しており。11世紀以降は、十字軍との攻防の舞台となっている。しかし、ティルスの市街地の中心はかつて島であったところから大陸側に移り、かつて繁栄した市街地は、現在は遺跡として残るのみとなっている。
十字軍とティルス
用語集ではティルス(テュロス、ティール)の繁栄はイスラーム勢力によって破壊されて終わったと記されているが、アラブ側の歴史書には次のような記載がある。それは十字軍国家の一つイェルサレム王国の国王ボードワンが、ティルスを攻撃した1111年のことである。(引用)かつてこのフェニキアの古代都市の王子カドモスは、故郷を去って音標文字(アルファベット)を地中海沿岸に広めたし、またその実妹ヨーロッパは、やがて自分の名をフランク(アラブでは十字軍をこう呼んだ)の大陸に与えることになる。そのティールの堂々たる城壁は今なお栄光の歴史を思い出させる。
町は三方を海に囲まれ、アレキサンダー大王が建造した狭い中道だけで堅い大地と結ばれている。難攻不落の名声のもと、町は1111年、最近占領された地域からの多数の難民を収容していた。<アミン・マアフーフ『アラブの見た十字軍』リブロポート p.140>
Episode 十字軍、ティルスの奇策に苦しむ
十字軍(フランク)はティロス(ティルス)の城壁を破壊するため移動やぐらを組み立て、恐るべき能力を持つ破壊槌で城壁を砕き始めた。進退窮まった守備側だったが、一人の男が碇のついた網で破壊槌を絡めてひっぱたのでやぐらが倒れ、この攻撃は失敗した。再びやぐらを組んで新しいもっと大きな破壊槌で城壁を壊そうとする十字軍に対して、今度は城内から、汚物でいっぱいの大壺がフランクめがけてぶちまけられた。十字軍兵士は身体に立ちこめる臭気に息もつまり、二度と破壊槌を操作することができなかった。さらに城内からは油やタールで火をついえた籠が投げ込まれ、そこに煮えたぎった油がふりまかれたため、やぐらは燃え上がり、兵士は逃げ出した。このティロスの抵抗は、アラブ側の十字軍に対する反撃の始まりを示す出来事の一つだった。<アミン・マアフーフ『アラブの見た十字軍』リブロポート p.141-2>