アブド=アルマリク
イスラーム帝国ウマイヤ朝の第5代カリフ。貨幣の発行、アラビア語の公用化、領土拡大などイスラーム帝国の基礎を築いた。
ウマイヤ朝の第5代カリフ(在位685~705)。20年間の治世で「諸王の王」と称され、ウマイヤ朝の全盛期をもたらした。まず、メッカでカリフを僭称していたイブン=アッズバイル(初代カリフのアブー=バクルの娘の子)を討伐してアラブ=イスラーム帝国の統一を回復し、さらに武将ハッジャージュをイラク総督としてクーファに派遣し、シーア派を徹底的に弾圧した。
帝国の統一策
アブド=アルマリクはアラブ=イスラーム帝国の統一を回復し、「イスラームの平和」(パックス=イスラミカ)を実現し、以下のような統一事業を実行した。- 統一貨幣の発行 広大な領土で流通する統一貨幣の鋳造に乗りだし、コーランの文句を表に刻み、裏には自らの名前を刻んだディーナール金貨とディルハム銀貨を発行した。これはイスラーム圏の貨幣経済発展の重要な要因となり、次のアッバース朝にも継承されることとなった。
- アラビア語の公用語化 ウマイヤ朝はダマスクスに中央官庁を置いて広大な領土の統治にあたったが、そこで行政用語をアラビア語に統一が必要となった。695年にアラビア語を公用語化として一本化することを決め、イランのペルシア語、シリアのギリシア語、エジプトのコプト語などを順次アラビア語への転換をはかった。
- マワーリーへの課税問題 アラブ=イスラーム帝国では異教徒には地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)が課せられていたので、征服地の異教徒は土地を捨てて都市に流れこみ、イスラームに改宗した。そのような改宗者をマワーリーという。その増加は地租収入の減少になるので、ウマイヤ朝政府は彼らを帰農させ、改宗しても地租を払うこととした。これに対してマワーリーの不満が強くなったので、次のカリフのウマル2世は改革に乗り出すが、解決に至らず、アッバース朝の改革を待つこととなる。
- 領土の拡大 アブド=アルマリクのカリフの時代、ウマイヤ朝の領土は、東西に急激に拡張された。まず704年、イラク総督ハッジャージュはクタイバ=ブン=ムスリムを司令官として東方に派遣、アラブ軍ははじめてアム川を渡ってソグディアナに侵入し、ブハラ、サマルカンドを征服し、さらにフェルガナ地方にも軍を進めた。この豊かなオアシス地帯を、アラブ人はマー=ワラー=アンナフル(川の向こうの土地)と呼んだ。これによってイラン系やトルコ系の民族の活動している中央アジア(トルキスタン)のイスラーム化が始まる。この同時期に西方のアフリカ北岸でも西進し、ビザンツ勢力を北アフリカから駆逐して、チュニジアのカイラワーン(現在のチュニス)を拠点にベルベル人征服に乗り出した。
- 「岩のドーム」建設 アブド=アルマリクはユダヤ教・キリスト教にとっても聖地であるイェルサレムに、かつて第2代カリフのウマルが、ムハンマドの昇天の地であると認定して建てた「ウマルのモスク」を「岩のドーム」として大規模に改修し、カリフの神聖な権威を示そうととした。687年に建造を開始し、692年完成した「岩のドーム」(クッバド=アルサフラ)は、いまもイェルサレム市外の中のイスラーム教のシンボルとして建っている。<以上、佐藤次高『世界の歴史8・イスラーム世界の興隆』1997 中央公論社 p.103~117 などによる>