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エクバタナ

4国分立時代のメディア王国の都。現在のイラン西部の都市ハマダーンの古名。アケメネス朝・ササン朝では夏の都とされた。

 イラン高原に定着したイラン系民族メディア人が前8世紀に建国したメディア王国の都がエクバタナで、アッシリア帝国の支配を受けた後、メディア王国が独立を回復した4国分立時代においても都であった。現在のイラン西部の都市ハマダーンの古名。メディア王国のディオケス王が築いた城郭をもとに、イランからイラクへの交通路の拠点として栄えた。 → 位置は4国分立時代を参照
 ギリシアの歴史家ヘロドトスはその著『歴史』の中で、次のようにエクバタナの様子を伝えている。

Episode 多彩な環状城壁をもつ都市

(引用)ディオケスはこうして主権を掌握すると、メディア人に否やをいわせず単一の町を造らせ、それからは他の部落のことは二の次にして、専らこの町のことに専念するようにさせた。メディア人は彼のこの要求も容れたので、ディオケスは壮大強固な城郭を築いたが、これが今日アグバタナ(エクバタナ)の名で呼ばれる城で、同心円を描いて城壁が幾重にも重なり合っている。・・・環状の城壁は全部で七重になっており、・・・第一の城壁の輪の胸壁は白、第二は黒、第三は深紅色、第四は紺青、第五は橙赤色、・・・そして最後の二つの城壁は、その胸壁に一方は銀、他方は金の板をかぶせてある。<ヘロドトス『歴史』巻一 98節 松平千秋訳 岩波文庫(上) p.82>

アケメネス朝・ササン朝の夏の都に

 メディア王国が滅亡して前550年にイラン高原に成立したアケメネス朝ペルシア帝国は、エクバタナを都の一つ、夏の都とした。なおペルシア帝国では、冬の都はバビロンとされ、王宮が季節によって移動、さらに行政上はスサが、宗教ではペルセポリスが首都機能を有していた。
 前4世紀にはアレクサンドロス大王も東方遠征に際して占領した。ヘレニズム時代を経て3世紀に成立したササン朝ペルシアは前代のパルティアに続き、クテシフォンを都としたが、エクバタナは夏の都として利用された。

イスラーム時代のエクバタナ

 イスラーム時代には一つの地方都市にすぎなくなったが、1037年、イスラーム世界の偉大な医学者イブン=シーナがこの地で亡くなり、いまでもその墓塔が町の中央に建っているという。
イランの首都の変遷 その後、イランを支配したイル=ハン国タブリーズを都とし、サファヴィー朝アッバース1世は新都イスファハーンを建設した。18世紀後半にイランを支配したトルコ系のカージャール朝アーガー=ムハンマドはイスファハーンとともに古都エクバタナも破壊し、テヘランを新たに建設し、現在もイランの首都とされている。