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チャンドラグプタ1世

グプタ朝の初代の国王。320年に即位。ガンジス川流域を統一し、グプタ朝によるマウリヤ朝以来のインドの統一の基礎を築いた。

 ガンジス川中流域、マガダ地方の小国から版図を拡大し、320年マウリヤ朝と同じパータリプトラを都にグプタ朝をひらいた。ガンジス川流域を統一し、「大王の王」(マハーラージャーディラージャ)と称した。ラージャが王という意味である。
 チャンドラグプタ1世の名は、マウリヤ朝の創始者チャンドラグプタと同名であるので注意しよう。またグプタ朝では第三代の王チャンドラグプタ2世がいて、こちらが全盛期の王としてより重要視されている。

グプタ紀元

 グプタ朝の創始者チャンドラグプタ1世はガンジス川流域を統一してパータリプトラ(かつてのマウリヤ朝の都)で即位した。その日の西暦320年2月26日を元日として「グプタ紀元」を始めた。グプタ朝以後もこの紀年法は北部インドで続いている。またインドは西欧世界と違い、年代の記録を残すことに熱心ではなかった。そのためインドの歴史では相対的な年代がわからないことが多い(その代表がブッダの生没年で諸説に100年の開きがある)。その中でこのグプタ紀元は年代をはっきりと特定できるので貴重である。

グプタ朝成立の背景

 チャンドラグプタの出たグプタ家は、3世紀末にその父ガトートカチャの時にガンジス川中流域で頭角を現した。ガンジス川中流域はマウリヤ朝滅亡後、約500年にわたって分裂状態が続き、インドの中心は北西インドのクシャーナ朝に移った。またデカン高原には同じ時期に南インドではサータヴァーハナ朝があって、インド洋交易圏での海上交易で繁栄していた。ガンジス中流域が復興し、グプタ朝が成立した背景には、3世紀にクシャーナ朝がササン朝ペルシアに押されて衰退し、同じ頃ローマ帝国の衰退に伴ってインド洋交易も衰えたことが背景にあったと考えられる。

婚姻による権威の獲得

 グプタ家の出自はよく判っていないが、そのヴァルナは正統的なクシャトリヤではなかったらしい。そこでチャンドラグプタは名門クシャトリヤのリッチャヴィ家の女性クマーラディーヴァを妃として迎えた。この婚姻によって王位の正当性を得たチャンドラグプタ1世は「大王の王」と名乗り、貨幣を発行して自分の名と共にリッチャヴィの名も刻み込んだ。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.57-58 など>

グプタ朝第2代サンドラグプタ王

 チャンドラグプタ1世の名はグプタ朝の創始者として世界史用語集にも載せられているが、グプタ朝の領域をほぼインド全域に広げる征服活動を行ったのは第2代サンドラグプタ王だった。さらにグプタ朝は第三代チャンドラグプタ2世の時、全盛期となって輝かしいグプタ様式の文化が繁栄したので、その名も用語集で重要度が高いとされている。この二人の王に挟まれたサンドラグプタ王は高校世界史ではとんど知られることがないが、グプタ朝の歴史では興味深いこともあるので、参考のために紹介しておこう。
 第2代サンドラグプタ(在位335~376年)は、大軍を率いてインド亜大陸南端近くまで征服活動を行った。彼の業績は、将軍ハリシェーナによってガンジス・ヤムナー川合流点近くに立つアショーカ王の石柱碑に追刻されている。そのサンスクリット語の頌徳文によると、彼の征服地は北はヒマラヤ山麓から南はカーンチプラム、東はベンガル地方、西はクシャーナ人の地域に及んだという。その征服行動に当たって、サンドラグプタはアシュヴァメーダ(馬祀祭)を行っている(グプタ朝の項を参照)。
 サンドラグプタ王の碑文によると、グプタ朝の統治は、マウリヤ朝が征服地に王子や高官を太守として派遣して中央集権的に統治しようとしたのに対して、その直轄地はガンジス中流域にとどまり、その他の遠方の諸王には帰順と貢納を条件に旧領を安堵するという、封建制度的な統治を行った。<辛島昇編『南アジア史』世界各国史7 山川出版社 p.113-117>