拓跋氏/拓跋部
騎馬遊牧民である鮮卑の中の一部族集団。3世紀の中頃モンゴル高原東部で有力となり部族連合国家を形成したが、分裂・衰退の後、拓跋圭が出て、386年に北魏を建国した。独自の軍事力に、漢人の政治組織を取り入れながら次第に最有力となり、五胡十六国の騒乱を収束して439年に華北を統一した。北魏は南北朝時代、南朝の江南の漢人王朝と対抗した。
鮮卑のなかの慕容氏と並ぶ有力部族。鮮卑は草原地帯で騎馬遊牧生活を送る北方民族のひとつであり、始めは匈奴に服属していたが、3世紀頃からいくつかの民族系統を含む政治的集団を形成して、匈奴に代わってモンゴル高原を支配するようになった。鮮卑は幾つかの部族集団を作ったが、その中から拓跋氏(拓跋部という言い方もある)が3世紀の中ごろ、力微(りきび)という族長を中心に力をつけ、部族連合国家を形成し、盛楽を本拠とするようになった。力微は後の北魏では初代の神元帝の称号を追贈されている。しかしその死後、この最初の拓跋国家は崩壊し、4世紀の初めにその孫の猗盧(いろ)が統合を回復し、中原が混乱するなか、晋の地方長官を援助した功績で、代王の爵位を得て現在の山西省代県の西を所領とした。しかし、漢人の知識人を重用したため部族長たちの不満があったためか、この国家も瓦解した。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.343-346>
鮮卑と拓跋部の関係 鮮卑の中心をなす遊牧民はもともと遼東(満洲南部)の北のシラムレン河に住んでいて、2世紀中頃、檀石槐のときに勢力を拡大し、モンゴル高原に及んだ。このとき多くの部族が鮮卑を称した。しかし拓跋部はそれよりおそく3世紀中頃に登場し、神元帝(力微)の頃、先行する慕容部にならって鮮卑を称した。拓跋部がいたのは鮮卑国家の西部のフフホト周辺で、その地の族長の一人が先祖の部族長とされた。さらに拓跋部は鮮卑であることを主張するために「大鮮卑山」に住んでいて、そこから南下して北魏を建国したという南下伝説を創作した。しかしもともとシラムレン河にいた鮮卑が拓跋部になったものではないし、ましてや大興安嶺にいた遊牧民が南下して拓跋部になったのではない。3世紀中頃にフフホトあたりにいた遊牧民が拓跋部をつくり、そこではじめて鮮卑を名乗ったと考えられる。<松下憲一『同上書』p.41>
1980年、鮮卑の原住地とされる大鮮卑山の大洞窟とされる嘎仙洞(カッセンドウ)が発見され、太武帝が納めた祝文を記した石碑が発見された。それについては鮮卑の項を参照。
その後拓跋部を統一した穆帝は310年に本拠である盛楽を北都、新たに入手した平城(現在の大同)を南都とし、315年、西晋から代王の爵位を与えられ、「代国」を成立させた。西晋によって代国が封建されるという形で拓跋国家が中国史の中で発足したことになる。この拓跋部が建てた「代国」は五胡十六国の十六国には入っていない。それは代国を継承したのが北魏で、その北魏が華北を統一する王朝となったので、後の歴史家が特別視して除外したためである。<松下憲一『同上書』p.54>
五胡十六国の中で羯(匈奴系の北方民族)の石勒が建国した後趙は、一時有力となって華北を制圧し、洛陽を治め、中華制度を取り入れた国造りを行い、仏図澄を保護して仏教も盛んだった。そのため拓跋部はそれに服属し、什翼犍(じゅうよくけん)がその人質として後趙の都、鄴に捕らえられた。かれはその間、漢人の帝都であった洛陽などの都城を見るなど、中華文明に触れ、338年に許されて帰国し、昭成帝として代国王に即位すると、その影響を受けて官僚制度と法律の整備に努めた。その後華北では氐の苻堅が建国した前秦が勢力を強め、ほぼ統一を達成すると、拓跋部もそれに服し、代国は河東・河西に分割された。
北魏の建国 拓跋珪が飛躍する契機となったのは、383年、前秦の苻堅が淝水の戦いで東晋軍に敗れたため、華北は再び分裂状態となったことだった。拓跋珪は386年に鮮卑諸部族に推されて牛川(内モンゴル自治区ウランチャプ)で代王として即位した。鮮卑のなかでは拓跋部であることがカリスマ性のもととなっていたのだった。拓跋珪は同年4月、盛楽に入り、国号を代国から魏に変更し、魏王を称した。これが一般に北魏の建国であるが、正式な国号は「魏」であり、三国時代の魏を継承する中華王朝としての国号を名乗ることで、他の五胡の諸国に対する正統性を主張する意味があった。
道武帝となる 魏王を称した拓跋珪であったが、なおも周辺の遊牧部族との戦いはつづいた。しかし拓跋珪は巧みな軍略で危機を脱し、有力部族の独孤部を破ってその兵力を収め、モンゴル高原に親征して高車(トルコ系の北方民族)・柔然などの遊牧民国家を平定し、さらに黄河を渡ってオルドスに入り、鉄弗部を征服した。395年は最後に残った有力部族国家後燕の慕容部との対決に乗り出し、参合陂の戦いでそれを破り、396年には後燕国の慕容垂が死んだことを受けて征服し、その都鄴を占領、多くの漢人手工業者を平城にうつした。このとき拓跋珪は後燕国が所持していた中華王朝伝来の玉璽を手に入れたとされており、それをもとに398年に国号を正式に魏(一般に三国時代の魏と区別するため、北魏という)と定め、初代皇帝道武帝となった。
道武帝として即位するにあたり、中華王朝としてのさまざまな制度や儀礼の制定が必要となり、それには後燕から投降した漢人の知識人たちが寄与した。同時に北方遊牧民の長である可汗としての伝統の継承も必要であり、その融合が図られていった。 → 北魏の統治
これによって五胡十六国の分裂を終わらせ、420年に江南に成立していた宋から始まる南朝に対して、北朝の始まりとされ、ここから南北朝時代とされる。
その後、拓跋氏一族は、北魏が東西に分裂しながらも続き、さらにそれを継承した隋と唐で政治的な支配層を形成したので、それらの国家を拓跋国家と言う場合もある。
拓跋部
高校世界史の教科書では拓跋氏と書いてあり氏族の名称として説明されることが多いが、これを拓跋部として、部族であるという説明も昔からある。実態は、部族としてとらえ拓跋部という方があっているようだ。この氏族と部族の違い、さらに民族という概念とはどう違うのか、専門家の説明を聞いてみよう。(引用)部族とは、おもに近代以前の人間集団をいうときに使用される学術用語である。共通の言語・文化を有し、一定の地域内に住んで同族意識を持つ集団を部族と呼んでいる。部族と似た用語に民族がある。民族は、言語・人種・文化・歴史を共有し、同族意識によって結ばれた集団を指す場合に用いられる。また部族より小さな血縁集団を指す場合には氏族が用いられる。部族・民族・氏族の概念上の区別は必ずしも明瞭ではないが、集団の規模の違いで氏族<部族<民族としている。<松下憲一『中華を生んだ遊牧民-鮮卑拓跋の歴史』2023 講談社選書メチエ p.44>では拓跋部はどのような構造になっていたか。世襲でリーダーを出す拓跋氏を中心、拓跋氏から別れた七族(紇骨氏、普氏、抜抜氏、達奚氏、伊婁氏、丘敦氏、侯氏)と拓跋氏の親戚筋の乙旃氏・車焜氏の計10の氏族が帝室十姓と呼ばれ、拓跋部を構成している。
鮮卑と拓跋部の関係 鮮卑の中心をなす遊牧民はもともと遼東(満洲南部)の北のシラムレン河に住んでいて、2世紀中頃、檀石槐のときに勢力を拡大し、モンゴル高原に及んだ。このとき多くの部族が鮮卑を称した。しかし拓跋部はそれよりおそく3世紀中頃に登場し、神元帝(力微)の頃、先行する慕容部にならって鮮卑を称した。拓跋部がいたのは鮮卑国家の西部のフフホト周辺で、その地の族長の一人が先祖の部族長とされた。さらに拓跋部は鮮卑であることを主張するために「大鮮卑山」に住んでいて、そこから南下して北魏を建国したという南下伝説を創作した。しかしもともとシラムレン河にいた鮮卑が拓跋部になったものではないし、ましてや大興安嶺にいた遊牧民が南下して拓跋部になったのではない。3世紀中頃にフフホトあたりにいた遊牧民が拓跋部をつくり、そこではじめて鮮卑を名乗ったと考えられる。<松下憲一『同上書』p.41>
1980年、鮮卑の原住地とされる大鮮卑山の大洞窟とされる嘎仙洞(カッセンドウ)が発見され、太武帝が納めた祝文を記した石碑が発見された。それについては鮮卑の項を参照。
部族連合国家=拓跋国家
神元帝以降、各地の部族を吸収して拓跋部を中心とする部族連合体である部族国家(それを拓跋国家という)が築かれた。部族国家の基本は、中核をなす部族とそれに従属した諸部族からなる連合体である。そこに農耕民や商人も加わる。『魏書』官氏志には、神元帝のとき七五の部族が従ったとあるが、これらの部族は拓跋部の勢力の強弱により、離合集散をくりかえす。強い時には従い、弱いときには離れていく。また拓跋部とそれに従う部族で構成された拓跋国家の周囲には、宇文部、慕容部、賀蘭部、尉遅部などの部族があり、これらは拓跋部と婚姻関係を結んだり、人質を交換したりして同盟関係を維持したり、ときには敵対関係なることもあった。<松下憲一『同上書』p.45>五胡十六国と拓跋部の代国
拓跋部は神元帝の死後、世襲の王(いすれも帝を称した)が継承したが、まもなく昭帝、桓帝、穆帝の三人によって分割された。そのころ、中国本土を支配していた西晋で八王の乱(290~306年)が始まると、互いに争う西晋の王たちは、匈奴や鮮卑などの北方民族の武力を利用しようとした。304年に南匈奴の劉淵が漢王を称して自立(ここから五胡十六国の争乱が始まるとされている)すると、西晋は拓跋部に救援を要請、拓跋部の桓帝は劉淵の軍を破り、その功績によって西晋から単于の称号と金印をもらった。その後拓跋部を統一した穆帝は310年に本拠である盛楽を北都、新たに入手した平城(現在の大同)を南都とし、315年、西晋から代王の爵位を与えられ、「代国」を成立させた。西晋によって代国が封建されるという形で拓跋国家が中国史の中で発足したことになる。この拓跋部が建てた「代国」は五胡十六国の十六国には入っていない。それは代国を継承したのが北魏で、その北魏が華北を統一する王朝となったので、後の歴史家が特別視して除外したためである。<松下憲一『同上書』p.54>
五胡十六国の中で羯(匈奴系の北方民族)の石勒が建国した後趙は、一時有力となって華北を制圧し、洛陽を治め、中華制度を取り入れた国造りを行い、仏図澄を保護して仏教も盛んだった。そのため拓跋部はそれに服属し、什翼犍(じゅうよくけん)がその人質として後趙の都、鄴に捕らえられた。かれはその間、漢人の帝都であった洛陽などの都城を見るなど、中華文明に触れ、338年に許されて帰国し、昭成帝として代国王に即位すると、その影響を受けて官僚制度と法律の整備に努めた。その後華北では氐の苻堅が建国した前秦が勢力を強め、ほぼ統一を達成すると、拓跋部もそれに服し、代国は河東・河西に分割された。
道武帝(拓跋珪)
代国の昭成帝(什翼犍)の孫の拓跋珪は6歳の時、代国が前秦に服属した際、逃れて鮮卑の一部族賀蘭部に保護された。苦難の幼少時代を送っていたが、後に彼は北魏を建国し、道武帝としてその初代皇帝となる。北魏は遊牧騎馬民族の部族連合国家としての拓跋国家であるが、第3代の太武帝の時に国力を充実させ、最初に華北を統一して南朝の諸国家と対抗していく。特に孝文帝の時に積極的に漢化政策をとって都を洛陽に移すという大転換を果たす。これは中国史の中で、北方遊牧民系の文化が取り入れられ、秦・漢時代とは異なる、新たな中華文明として隋・唐帝国が生まれるという大きな変化をもたらすこととなった。<以下、松下憲一『同上書』p.70-83>北魏の建国 拓跋珪が飛躍する契機となったのは、383年、前秦の苻堅が淝水の戦いで東晋軍に敗れたため、華北は再び分裂状態となったことだった。拓跋珪は386年に鮮卑諸部族に推されて牛川(内モンゴル自治区ウランチャプ)で代王として即位した。鮮卑のなかでは拓跋部であることがカリスマ性のもととなっていたのだった。拓跋珪は同年4月、盛楽に入り、国号を代国から魏に変更し、魏王を称した。これが一般に北魏の建国であるが、正式な国号は「魏」であり、三国時代の魏を継承する中華王朝としての国号を名乗ることで、他の五胡の諸国に対する正統性を主張する意味があった。
道武帝となる 魏王を称した拓跋珪であったが、なおも周辺の遊牧部族との戦いはつづいた。しかし拓跋珪は巧みな軍略で危機を脱し、有力部族の独孤部を破ってその兵力を収め、モンゴル高原に親征して高車(トルコ系の北方民族)・柔然などの遊牧民国家を平定し、さらに黄河を渡ってオルドスに入り、鉄弗部を征服した。395年は最後に残った有力部族国家後燕の慕容部との対決に乗り出し、参合陂の戦いでそれを破り、396年には後燕国の慕容垂が死んだことを受けて征服し、その都鄴を占領、多くの漢人手工業者を平城にうつした。このとき拓跋珪は後燕国が所持していた中華王朝伝来の玉璽を手に入れたとされており、それをもとに398年に国号を正式に魏(一般に三国時代の魏と区別するため、北魏という)と定め、初代皇帝道武帝となった。
道武帝として即位するにあたり、中華王朝としてのさまざまな制度や儀礼の制定が必要となり、それには後燕から投降した漢人の知識人たちが寄与した。同時に北方遊牧民の長である可汗としての伝統の継承も必要であり、その融合が図られていった。 → 北魏の統治
北魏の華北統一
北魏の第三代太武帝が北燕、北涼、夏を併合して439年華北を統一を完成させた。これによって五胡十六国の分裂を終わらせ、420年に江南に成立していた宋から始まる南朝に対して、北朝の始まりとされ、ここから南北朝時代とされる。
その後、拓跋氏一族は、北魏が東西に分裂しながらも続き、さらにそれを継承した隋と唐で政治的な支配層を形成したので、それらの国家を拓跋国家と言う場合もある。
その後の拓跋国家
北魏はその後、東西に分裂していくが、拓跋氏の血統は支配層として続き、北周・隋・唐はいずれもその血統と姻戚関係を結んだ漢人貴族が政権を握った王朝であった。このような鮮卑の拓跋氏に代表される遊牧系の北方民族(漢民族からは胡人と言われた)と漢人が混血し、文化的にも融合していったのが、北魏以降の北朝と、そこから生まれた隋・唐王朝であった。このような胡漢融合国家を成立させた、拓跋系の貴族が支えた体制を「拓跋国家」といっている。