宋(南朝)
中国の南北朝時代、南朝の最初の王朝(420~479年)。東晋の実権を握った劉裕が武帝として即位、建国した。貴族社会が続き、六朝文化が開花したが政情は不安定であった。この王朝に日本の倭の五王が遣使し冊封されている。
南北朝時代(5世紀)の中国
初代皇帝武帝として即位した劉裕は、もと軍人で、軍事政権という性格が強い。2代目の文帝は文芸を奨励し六朝文化が繁栄し、詩人の謝霊運などが活躍した。
注意 建国した劉氏にちなみ、劉宋という場合もある。「宋」という国号は、960年に趙匡胤が建国する宋(北宋)と同じなので注意する。また、宋が金に圧迫されて都を臨安に遷してからを南宋というので、それと区別したときはこちらは「南朝の宋」とするとよい。
南朝の宋と日本
なお、5世紀の日本の大和王権の「倭の五王」が使節を南朝の宋に派遣したことが『宋書倭国伝』に記されている。倭の五王の遣使は次の斉と続く南朝の諸王朝に対して行われ、朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と対抗するために、倭国の支配権を承認してもらう狙いがあったと思われる。斉への交替
南朝の宋王朝では、皇帝一族の権力闘争も相次いで、次第に混乱が激しくなり、北魏の討伐に失敗してから衰え、479年に最後の皇帝順帝が軍人の蕭(しょう)道成に位を禅譲して滅亡した。蕭道成は建康を都として継続し、国号を斉と改めた。Episode 「来世は王家に生まれませんように」
劉裕は東晋の安帝を絞殺し、弟恭帝をたて、その禅譲を受けて即位した宋の武帝となった。武帝はさらに前皇帝の恭帝も暗殺した。武帝以後の諸帝は猜疑心にかられて皇族諸王を殺害したので、武帝の九人の子ども、四十余人の孫、六十七人の曾孫の大部分は非業の死を遂げた。孤立した宋の最後の皇帝順帝の譲りを受けた蕭(しょう)道成、つまり斉の高帝はさらに宋の皇族を一人残さず滅ぼした。譲位を強制された順帝は指をはじいて「まかりまちがっても、来世は天王の家に生まれてくることがないように」と皇帝たる身の薄命をなげいたという。<貝塚茂樹『中国の歴史』中 1969 岩波新書 p.26>