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羈縻政策/羈縻州

唐などの中国王朝が採った、特に北方遊牧民系の異民族に対する統治策。州県に組み入れて直接統治としながら、その官吏には現地の異民族を任命し、現地の懐柔を図った。

 唐王朝630年突厥(第一帝国。厳密には東突厥)を滅ぼしたとき、服属した旧突厥人を統治するためにはじめた異民族統治法。その征服地に州・県を置き、州の都督・刺史(知事にあたる)、県令に現地の異民族の有力者を任命するやりかたで、そのような州を羈縻州といって通常の内地の州と区別した。羈縻(きび)とは、馬や牛をつなぎ止めておくという意味で、異民族の地域を唐王朝の州県に組み込みながら、現地の異民族にその地の一定の統治権を分け与える、異民族に対する懐柔策と言うことできる。また、いくつかの州をまとめて監視するために都護府を置き、都護府の長官以下の官吏と付属の軍隊は中央から派遣した。
 唐王朝はこの羈縻州を征服した異民族の地域に広げて行き、冊封体制とは異なる直接的な統治を行いながら、現地有力者を地方官吏に任命するやりかたで、現実的な世界帝国としての支配を周辺に広げていった。このような異民族支配を羈縻政策という。

冊封体制との違い

 唐王朝以前の中国は、周辺の諸国と間で冊封体制を築いて、唐を中心とする国際秩序を作り上げていた。冊封体制では中国の王朝が周辺諸国の国王に対し、国王の称号やその地域に対する軍事支配権などを付与する形をとっているので、周辺諸国は従属的ではあるが形式的には独立している。それに対して羈縻州には国王は置かれず、州県に組み込まるので、中国の王朝の支配は直接的に及び、従属の度合いが強い。しかし、内地の州県と異なり、現地の族長などがその官吏に任命され、一定の権限は維持できる。 → 隋唐世界帝国

羈縻州設置の意味

 隋と唐の時代には、北方に有力な遊牧帝国として突厥があったが、583年に東西に分裂、そのうちの東突厥が唐の太宗のときに服属した。そのとき、北方の遊牧民諸民族の長は、太宗に対して天可汗の称号を贈った。これは太宗が遊牧民世界の君主であることを認めたことを意味し、それ以来唐王朝の皇帝が北方遊牧民に対する統治権が承認された。唐は征服した北方民族居住地に都護府を置いて羈縻政策で治めることにした。 → 世界帝国
(引用)唐は二代太宗・三代高宗の時代に領土を広げて世界帝国を完成します。そのきっかけとなったのは630年東突厥の壊滅にあります。唐はその時突厥の頡利可汗を捕虜にしましたので、突厥には可汗がいなくなりました。従来中国の異民族支配の際には、異民族の君主を温存して、中国の皇帝と君主の間に君臣関係を結び(これを君主を冊封するといいます)、君主を通じて異民族を支配するのが普通でした。ところが突厥の場合には、冊封すべき君主がいなくなってしまったのです。そこで議論の末、突厥の旧支配地に州県を置き、州の都督・刺史、県令に突厥各級の指導者を任命いたしました。このような州県を内地の州県と区別して「羈縻州」と呼びました。<堀敏一『中国通史』講談社学術文庫 p.203>
 唐はその後、突厥の北方にあった鉄勒、さらに東方にいた契丹の地、さらに高宗の時代には西モンゴルから東西トルキスタンにたる広い地域を支配していた西突厥の王を虜にして、それらの地に次々と羈縻州を設置した。西域ではトゥルファン(吐魯番)にあった高昌国を征服したときは、羈縻州ではなく中央から官吏を派遣して直接統治とした。それはこの地は早くから漢人が入植していたからであった。このように唐の支配領域が広がるにつれて羈縻州は増加し、唐の内地の州が328~362で推移したのに対して、羈縻州の総数は856もあった。また羈縻州を監視する都護府も重要性を増した。<堀敏一『前掲書』p.205>
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堀敏一
『中国通史』
2000 講談社学術文庫