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国風文化

10~11世紀の日本で、それまで受容した唐文化を基盤として、独自の文化が形成された。仮名文字、和歌、物語などから寝殿造、大和絵などに見ることができる。

 7~9世紀の日本は、漢字をはじめとする中国の文化を受容し、また仏教・儒教・律令制なども隋・唐時代に積極的に取り入れて文明を築いた。その間、遣隋使や遣唐使が大きな役割を果たした。奈良時代には唐・渤海・新羅の東アジア地域との交流によって、日本文化は発展したと言うことができる。しかし、8世紀中頃から始まる唐の衰退は、東アジア全域の国際秩序を変質させ、それぞれの地域で独自な文化の形成がが始まるという変化をもたらした。日本の王朝政府が894年、菅原道真の建言で遣唐使の派遣を中止したこともその現れのひとつと考えられる。

日本独自の文化の形成

 10~11世紀にかけて、日本独自の文化の形成が進んだ。特に漢字を元にして仮名文字がつくられ、日本語をよりきめ細かく表現する事が可能となり、文学でも漢詩・漢文より和文で記された随筆や物語が生まれた。その代表作が『枕草子』や『源氏物語』である。また建築でも寝殿造などの貴族の邸宅に独自の造形美が見られるようになり、仏像彫刻でも藤原時代の独自の日本風な作風が、日本独の寺院建築と共に発達し、絵画では大和絵といわれる典雅な画法が生まれた。この間、平安時代の政治の実権は天皇から藤原氏の摂関家に移り、摂関政治が展開され、荘園制を基盤とした貴族が社会の支配層を形成したが、この時期の文化の担い手も、そのような貴族階級であった。

世界史的な意義

 10~11世紀は中国においてが滅亡(907年)して五代十国の争乱の時期に入り、さらにが統一を再建(960年)したものの、北方に強大な契丹(遼)が成立(916年)してその圧迫を受け、1004年には澶淵の盟が結ばれ、東アジアの国際秩序が大きく変動した時期であった。日本が遣唐使を停止(894年)して、正式な国交が途絶えると共に、平将門の乱(939年)などの動乱を経て摂関政治から院政へと向かったのはアジアの情勢と無関係ではない。また仮名文字の工夫は同じように漢字をもとにして契丹文字西夏文字女真文字などが生まれていったのと同じ傾向にある。

日宋の関係

 ただし、平安時代の日本が中国大陸との全く無関係であることはありえない。五代十国のひとつで江南の杭州に都を置いた呉越国との商人の往来は続いていた。華北では宋(北宋)と契丹の対立が続いたため、唐の時代のような朝貢貿易を行うことはなかったが、宋の商人が博多などに盛んに来航するようになり、日宋貿易が私的なレベルであったが盛んに行われた。朝鮮半島で成立した高麗とは国交を開くことはなかったが、同じく九州沿岸での私的な貿易が行われた。1127年、宋は江南に遷って南宋となっても日本との交易は続き、特に平清盛は積極的な貿易船の派遣を行った。国風文化は日本が国際的な関係を断ったことで成立したのではなく、関係が続く中で独自性を身に着けていったものと理解すべきであろう。
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