ハザール=カガン国(ハン国)/ハザール王国
6~10世紀に南ロシア草原に存在したトルコ系遊牧国家。ヴォルガ水系、カスピ海、黒海交易で繁栄する中、ユダヤ教を受容し、ユダヤ人国家となった。11世紀始めにロシアとビザンツによって滅ぼされた。
ハザルとも表記。まらハザール=ハン国、ハザール王国ともいう。6~10世紀に、カスピ海と黒海北岸の南ロシア草原地帯にあった、トルコ系民族の遊牧国家。もともとはトルコ系の西突厥を宗主国としていたが、7世紀に自立して王は可汗(カガン)を称した。黒海をはさんで向かい合っていたビザンツ帝国と通交し、時に侵攻して恐れられた。7世紀にはハザールに圧迫された同じトルコ系のブルガール人は西方に移動し、バルカン半島に入った。
その商業活動は、ヴォルガ川を遡ってルーシと交易し、カスピ海方面はイスラーム商人との、黒海方面はビザンツ帝国との交易の場となった。都はヴォルガ河口のイティリだった。なおイスラーム教徒はカスピ海のことを「ハザールの海」というのは、かれらもハザール人とカスピ海を舞台に交易を行ったからである。また、ハザール側がイスラーム商人に提供したのはスラブ人などの奴隷だった。
ハザール王国はその黄金時代を通じて、ユダヤ教を国教としていたと思われるが、その盛んな時代は長く続かなかった。965年から969年にかけて、キエフ公国がこの地方に侵入し、その後の戦争も長びき大部分が占領された。その後約半世紀、クリミア地方で独立状態を保ったが、1016年までにロシアとビザンツ帝国の短期間の同盟軍によって征服された。
その商業活動は、ヴォルガ川を遡ってルーシと交易し、カスピ海方面はイスラーム商人との、黒海方面はビザンツ帝国との交易の場となった。都はヴォルガ河口のイティリだった。なおイスラーム教徒はカスピ海のことを「ハザールの海」というのは、かれらもハザール人とカスピ海を舞台に交易を行ったからである。また、ハザール側がイスラーム商人に提供したのはスラブ人などの奴隷だった。
ユダヤ教の受容
ハザール国はビザンツ帝国の北にある国々の中でも重要な国の一つだった。8世紀の初め、ブランという王侯がユダヤ教の長所を認めて、公にこれを王国の宗教とした。ユダヤ教は、地中海・黒海・カスピ海周辺で活動していたユダヤ商人たちによって伝えられたものであった。多くの貴族も国王に従い、彼の子孫の一人オバティアはシナゴーグ(ユダヤ教教会)を建設し、外人の学者を招き、熱心に進行を広めた。支配階級だけでなく、普通の人々もユダヤ教徒となり、ユダヤ化が進んだ。しかも、ユダヤ教の伝統的な寛容の原則により、他の宗教も妨げられなかった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.190>ハザール王国の滅亡
このように歴史上、ハザール=カガン国(ハン国、王国)はトルコ系の遊牧国家として生まれたが、ユダヤ教を受容し、厳密にはユダヤ人ではないが、自らユダヤ人であると自覚するようになったユダヤ国家である、といえる。ハザール王国はその黄金時代を通じて、ユダヤ教を国教としていたと思われるが、その盛んな時代は長く続かなかった。965年から969年にかけて、キエフ公国がこの地方に侵入し、その後の戦争も長びき大部分が占領された。その後約半世紀、クリミア地方で独立状態を保ったが、1016年までにロシアとビザンツ帝国の短期間の同盟軍によって征服された。
ロシアのユダヤ人
ハザール=カガン国はその実態にはまだ明らかになっていないことも多いが、特筆すべきは、他のトルコ系諸民族がイスラーム教を受け容れたのに対してユダヤ教を受容したことである。また、彼らはキエフやロシアに押されて衰退するが、ユダヤ教信仰を持ち続け、それがロシアにユダヤ教徒=ユダヤ人が多い理由ともなっている。彼らは19世紀末の帝政ロシアで迫害され、戦後パレスチナにわたってイスラエル建国に加わった。<坂本勉『トルコ民族の世界史』慶応義塾大学出版会 p.20>