キエフ(キーウ)/キエフ公国/キエフ=ルーシ
ノヴゴロド国を建てたノルマン系のルーシがさらにドニェプル川中流に進出して建国。その地のスラヴ人と同化し10~13世紀にキエフ(現在のウクライナの首都キーウ)を中心に繁栄した。現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシのもととなった。13世紀モンゴルのバトゥの遠征軍によって滅ぼされた。
キエフの始まり
ウクライナの中心都市キエフ(現地のウクライナ語の発音ではキーウ)は、12世紀頃に編纂された東スラヴ人最初の歴史書『原初年代記』によると、東スラヴ人の中のポリャーネ氏族の三兄弟キー、シチェク、ホリフの三人がこの町を開き、長兄の名前に因んでキエフとしたという。現在もキエフの町のドニェプル川沿いの公園にこの三兄弟の像が立っている。東スラヴ人は、カスピ海北岸のトルコ系のハザール=カガン国との交易を行っていた。<以下、黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.29 などによる>キエフ公国の建国
9世紀末、ノルマン人の大移動の動きの一つとして、ヴァイキング(またはヴァリャーグ人。彼らは自らをルーシと称した)を率いたリューリクはノヴゴロド国を建国した。その一族のオレーグは、ビザンツ帝国との交易の利益などを目指して南下し、882年、ドニェプル川中流のキエフを占領、都をノヴゴロドから移した。オレーグはさらに南下してビザンツ帝国を脅かした。これが実質的なキエフ公国(キエフ=ルーシ)の成立であるが、オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが大公として治めることになり、正式に公国となった。その過程でルーシは東スラヴ人に同化していった。またこの間のことをロシア史では「キエフ=ルーシ」といっている。ロシアといってもほぼ現在のウクライナにあたる。 → ロシア国家参考 なぜ「公国」なのか
キエフ=ルーシは王国ではなく「公国」といわれている。一般に「公」とは王より下の身分の皇太子や王族に対する称号であり、彼らが支配するのが「公国」である。あるいはより高い権威である「皇帝」や「王」を宗主として仰ぎ、一定の領域支配を認められている場合を「公国」ということもある。つまり「公国」は「王国」より一段と低い国家秩序とされるが、実態は「王国」と同じであることが多い。キエフ公国の場合はどうか。これも『物語ウクライナの歴史』を参照してみよう。
(引用)キエフ公国の君主は「クニャージ」といわれた。この語は語源からは英語の「キング」、ドイツ語の「ケーニヒ」、スウェーデン語の「コヌング」に相当する語であるといわれるものの、時がたつにつれてクニャージの息子たちやその子孫がすべてクニャージと称するようになり、その価値がプリンスまたは公爵並みに下落してしまった。そして後世になると、クニャージの治める国ということで、キエフ国も公国というランクが一段下の訳語をつけられることになった。本来はキエフ=ルーシ王国といった方が実態から見て公平であると思われる、現にウクライナの民族主義的色彩の強い史書には王国と称するものがある・・・<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.23-24>つまり、本来王を意味した「クニャージ」が安売りされて値が下がったわけですね。実際、キエフ公国はやがてたくさんの公国に分かれて行き(その一つがモスクワ公国)、それらと区別して本家を特に「キエフ大公国」と言うようになる。
なお、キエフ=ルーシは本来は「ルーシ」とのみ呼ばれていたので、「ルーシ公国」と呼びたいところだが、その後ルーシからは派生した「ロシア」が別の国家を指す言葉として用いられるようになり、そのロシアとの混同を避けるため、後に「キエフを都とするルーシ」という意味で「キエフ=ルーシ」と呼ぶことが慣例になった。<黒川・同上 p.24>
キエフ公国の発展
キエフ公国はイーゴリが若くして戦死したためその妻オリガ(ウクライナ語ではオリハ)が摂政となり、その子のスヴィヤトスラフの時代にかけて、徴税や法を整備して国力を高め、ドニェプルから黒海に出て盛んに南方に進出、カスピ海北岸のハザール=カガン国や、9世紀に黒海北岸に進出してきたトルコ系のペチェネグ人、バルカン半島のブルガリア人などと戦いながら、次第に軍事力を強めていった。ウラディミル1世のギリシア正教改宗
988年、キエフ大公ウラディミル1世は、コンスタンティノープルに軍隊を南下させてビザンツ帝国に脅威を与えた。しかし、彼は兵を引いて自らギリシア正教に改宗し、公認の宗教として取り入れ、ビザンツ文化を受容、「ビザンツ化」を推進した。次のヤロスラフ(賢公)は、自分の娘たちをフランス、ノルウェー、ハンガリーの王に嫁がせ、「ヨーロッパの義父」と言われた。ともにキエフ公国の全盛期となった。キエフ公国がギリシア正教を受容したことは、ロシアの歴史に重要な意味を持つ。フランク王国のカール大帝がローマ=カトリック教会と結んで西ヨーロッパ世界が形成されたのに対し、ウラディミル1世はギリシア正教と結んで東ヨーロッパ世界を形成した。さらに15世紀にビザンツ帝国が滅亡すると、キエフ公国の後継国家であると自らを位置づけているロシアが東方キリスト教世界の保護者と称するようになる。
キエフ(キーウ)
キエフ(キーウ) GoogleMap
また10世紀にギリシア正教会を受容するとともに、キリル文字を用いるようになった。さらにヤロスラフとウラジミル=モノマフの時期に編纂された法典『ルースカヤ=プラウダ』(プラウダとは真理、正義の意味)が編纂された。ギリシア正教、キリル文字、法典ルースカヤ=プラウダは、いずれもロシア国家に引き継がれ、ロシア文化の基盤となっていく。
世界遺産 ソフィア大聖堂とペチェルスク修道院
キエフにはウラディミル1世のギリシア正教受容以来のキリスト教関係の文化遺産が多い。いずれも現在はウクライナ正教会の施設となっている。ソフィア大聖堂は、賢公といわれたヤロスラフが建設した公国の正教会の中心であり、今でもヤロスラフの棺にはその遺骨が納められている。外観は特徴的なネギ帽子型のたくさんの塔が目立っている。その内部には11世紀の建築当時のフレスコ画やモザイクが残されており、当時の信仰と社会生活を知ることができる。
キエフ郊外のペチェルスク修道院は、11世紀中頃に作られた、ウクライナとロシアで最も権威のある修道院で、『原初年代記』もここの修道士によって編まれた。もとは修道士の墓として使われた地下洞窟だったそうで、今でもミイラ化した修道士の遺体が残されている。修道院と言っても巨大なもので、構内には大聖堂や大鐘楼が建ち並んでいる。 → ユネスコ世界遺産センター キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ-ペチェールスカヤ大修道院
キエフ公国の分裂
11世紀後半になると、キエフ公国の南からトルコ系の遊牧民ポロヴェツ人が侵攻するようになり、それとの戦いに悩まされ(伝承の『イーゴリ軍記』はポロヴェツ人との戦いが舞台となっている)、12世紀には大公ウラジミール=モノマフが一時態勢を持ち直したが、その死後再び一族の内紛が起こり、10~15の公国が分離独立し、キエフ大公国はその中の一つにすぎなくなってしまった。分離独立した公国には、ウラディミルを都とするウラディミル大公国が最も有力であり、北東のモスクワ公国が次に台頭していくこととなる。モンゴルのバトゥの遠征軍が侵入したころのキエフ公国はこのような分裂状態にあった。モンゴルの襲来
1206年、モンゴル帝国を建てたチンギス=ハンは1223年にポロヴェツ人を攻撃、ポロヴェツ人はルーシに援軍を求めた。ルーシは援軍を派遣して戦ったが敗れた。これはモンゴルの最初の偵察行であったらしい。次いでオゴタイ=ハンはバトゥを総司令官としてルーシ征服の遠征軍派遣を決定し、1237年、バトゥの率いるモンゴル軍はロシアに入りリャザン、モスクワに次いで1238年にウラディミル大公国を攻撃して、占領した。さらに1240年にモンゴル軍はキエフを占領、キエフ市街は炎上して、キエフ公国は滅亡した。ハーリチ=ヴォルイニ公国 キエフ公国は滅亡したが、その一つの地方政権であったハーリチ=ヴォルイニ公国は、ウクライナ西部の現在のガリツィア地方で存続していた。モンゴル軍に抵抗を続け、結局はキプチャク=ハン国に朝貢して従属したが、独立国家としては存続した。ウクライナの歴史では、これがキエフ=ルーシ公国を継承した国であり、同時にウクライナ人として最初に作った国家であるとされている。しかし、1340年代になると、この国は北をポーランド、南をリトアニアに併合され、消滅してしまった。
キプチャク=ハン国の支配
バトゥはさらにポーランドに攻め込み、ワールシュタットの戦いで大勝した。そのまま西進するかと思われ、全ヨーロッパのキリスト教世界を恐怖に陥れたが、オゴタイ=ハンの死去の知らせに東にとって返した。バトゥは結局カラコルムには戻らず、1243年、ヴォルガ河畔のサライにとどまり、キプチャク=ハン国を建国した。ロシア各地の諸侯はサライのハンに従って租税を納めなければならなくなり、長い「タタールのくびき」の時代にはいることとなる。参考 キエフ=ルーシは誰のものか
10~13世紀のキエフ=ルーシ(キエフ公国)は、ヨーロッパの大国のひとつであった。この国の歴史は通常はロシア国家の歴史の文脈で語られてきた。つまり、キエフ=ルーシの後継国家はモスクワ大公国であり、それが発展してロシア帝国となったとされてきた。キエフ=ルーシが消滅し、さらにウクライナがロシア領となり、ソ連領となってからは、ウクライナの歴史は語られることなく、ロシア史・ソ連史の一部としてきた。それに対して、1991年にウクライナが独立し、改めてウクライナ民族の歴史を見直す動きが強まった現在、「ロシア史の一部としてのウクライナ」と捉えるべきではないという主張が強まっている。そのようなウクライナ=ナショナリズムの見方に依れば、モスクワ公国はもともとキエフ=ルーシの地方政権(いわば分家)にすぎず、しかも本家のキエフ=ルーシとは異なった国家として独自発展したものであるとしている。その見方で言えば、ウクライナのその後の歴史は不幸な外国支配が続いたが、キエフ=ルーシを継承したのはモスクワ公国・ロシアではなく、コサックと彼らがつくった自治国家(アタマン国家)であり、それが独立ウクライナへとつながっていくのだ、という主張が出されている。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.23-26>
→ ウクライナ「国がない」民族の歴史の項を参照