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ダマスクス

シリアの中心都市で古代のアラム人の交易都市として始まり、イスラーム勢力支配後はウマイヤ朝の都となる。その後マムルーク朝、オスマン帝国の支配などを経て、現在はシリアの首都。

ダマスクス GoogleMap

ダマスクス Damascus は、シリアの中心都市。ダマスカス、あるいはダマスコ、ディマシュクと表記されることも多い。前10世紀、アラム人の国の都として建設され、その後も西アジア交易の中心地として栄える。前732年にはアッシリア帝国に征服された。その後、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、ローマ帝国、ササン朝ペルシアの支配を受けた。
 地中海から90km内陸に位置し、シリアとレバノンの国境にある山脈の東側、標高660mの高原にある。その東側はシリアの広大な砂漠に接するが、この地は山脈からの水に恵まれ、周辺には果樹園が広がる。古くからメソポタミア(バグダード)・パレスチナ(イェルサレム)・エジプト(カイロ)を結ぶ交通路の中間にあり、またここからアラビア方面に向かう分岐点でもあった。旧約聖書の時代から現代に至るまで、西アジアの歴史の扇の要の役割を果たした「世界で最も古い都市」の一つである。


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ダマスクス(2)イスラーム化後

ウマイヤ朝の都

 7世紀の初めにアラブ人の勢力が及び、ササン朝ペルシア滅亡後は、ウマイヤ家のムアーウイヤがシリア総督として635年にダマスクスに入り、統治していた。661年、ムアーウイアがウマイヤ朝を創始すると、その首都となって繁栄した。
 ウマイヤ朝時代のダマスクスを代表する建物が、8世紀の初めにカリフ・ワーリド1世が建造したウマイヤ=モスクで、ビザンツ様式のギリシア正教の教会の一部を利用して建てた、イスラーム世界最古のモスクと言われている。
 ウマイヤ朝滅亡後も、東西交易の中継基地としての経済的な重要度は変わらず、さらにイスラーム世界の宗教的・政治的な面でも重要な都市として存続し、11世紀には小アジアからセルジューク朝が進出し、その支配をうけることとなる。

ザンギー朝とアイユーブ朝

 十字軍の侵攻が続く中、12世紀中ごろ、セルジューク朝の衰退に代わって、トルコ系スンナ派のザンギー朝が、ヌールッディーンの時にダマスクスに無血入城し、シリアを統一した。ザンギー朝は1144年に十字軍国家の一つのエデッサ伯領を滅ぼし、さらに第2回十字軍を撃退した。ザンギー朝の部将であったクルド人サラーフ=アッディーン(サラディン)がカイロで自立しアイユーブ朝を建て、ついでダマスクスを占領してザンギー朝を倒し、シリア・エジプトにまたがる支配を樹立した。

モンゴルとティムール

 13世紀の中ごろモンゴル帝国のフラグが西アジアに遠征、ダマスクスも占領されたが、1260年のアインジャールートの戦いでマムルーク朝のバイバルスがモンゴル軍を破り、ダマスクスもマムルーク朝の領土となる。
 マムルーク朝時代の1401年には、中央アジアから急膨張したティムールが侵攻し、一時占領され、大々的な破壊を蒙った。

オスマン帝国領になるまで

 マムルーク朝は1517年にオスマン帝国に滅ぼされ、それ以後、ダマスクスはその支配下の一都市として続く。

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ダマスクス(3)近代・現代

オスマン帝国支配からの解放

 近代ではオスマン帝国の支配が続き、第一次世界大戦中の1918年にメッカの太守ハーシム家のフセインがイギリスとの間でフセイン=マクマホン協定を結んでアラブの独立を条件にオスマン帝国に対する「アラブの反乱」を開始した。フセインは紅海沿岸のヒジャーズ地方にヒジャーズ王国を作って独立を宣言、その第三子ファイサルにアラブ軍を率いさせてシリア奪還のために派遣した。この時イギリスのロレンスがファイサルに協力した。1918年9月30日、ファイサルの率いるアラブ軍はダマスクスを攻略、アラブ人の支配を樹立した。翌10月にはオスマン帝国は停戦に応じ、オスマン軍の支配が終わった。
 1920年3月8日にダマスクスでアラブ民族会議が開催され、ファイサルを国王とする「大シリア立憲王国」(シリア王国)の独立が宣言された。これは、アラブ人の念願であるアラブ人による民族国家であり、しかもその版図は古代以来の「大シリア」を再現しようとするものであった。

フランス軍のダマスクス攻撃

 しかし、すでに第一次世界大戦中にサイクス=ピコ協定でイギリスとフランスはオスマン帝国領土を分割する密約を結んでおり、シリアの地を委任統治とすることを予定していたフランスはファイサルのシリア王国の独立を認めず、軍事力で排除を図った。7月25日、フランス軍はダマスクスを攻撃し、それによってファイサルは敗れてダマスクスから退去し、イギリス軍に保護されてイラクのバグダードに移った。こうして、アラブ人による「大シリア」の復興というファイサルの夢は潰え、狭義のシリア(現在のシリアの領域)とイラク、パレスチナなどはアラブ人の意向や部族の分布、スンナ派とシーア派など宗派の分布とは関係なく、イギリスとフランスによって線引きされた線を国境として分離されることとなった。
 こうして第一次世界大戦後のシリアはフランスの委任統治領シリアとなった。フランス委任統治下のシリアは4つの形式的な国に分けられ、ダマスクスにはダマスクス国が置かれた(1924年にシリア国となる)。次第に独立の要求が強まり、1932年から独立に向けての交渉が始まり、1936年には事実上の独立が認められた。第二次世界大戦でフランスがナチス=ドイツに敗れると、親ドイツ政権ヴィシー政府側についたシリア駐留フランス軍に対して、1941年、イギリス軍・自由フランス軍が攻撃を仕掛け、戦争が飛び火した。1944年にシリアは独立を宣言、その後フランス軍も撤退して、1946年にシリア=アラブ共和国が正式に独立し、ダマスクスはその首都となった。ダマスクスは現在も西アジアの政治、文化の中心地の一つであるが、1970年代からアサド政権による独裁的統治が続き、2011年のアラブの春が波及してシリア内戦が始まって、混乱が続いている。

世界遺産 古都ダマスクス

 1979年、ダマスクスは古代都市として世界遺産に登録された。イスラーム文明よりも以前の、約3000年前にアラム人が作った都市に始まり、永く中東の商業の中心として栄え、8世紀以降はウマイヤ朝の都としてイスラーム世界の中心地としての歴史を今に伝えている。中心のウマイヤ=モスクは、モスク建築の中でも最も古いものの一つで、イスラーム教の重要な聖地でもある。 → ユネスコ世界遺産センター Ancient City of Damascus
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