印刷 | 通常画面に戻る |

コンベルソ

中世スペインのスペイン王国・ポルトガル王国で、ユダヤ人でユダヤ教からキリスト教に改宗した人々のこと。厳しく差別され、マラーノ(豚)と蔑称された。彼らはスペイン、ポルトガルから逃れてヨーロッパ各地に広がり、社会的・文化的に重要な活動をしている。

強まるユダヤ人迫害

イベリア半島のユダヤ人 イベリア半島のレコンキスタが進行する中で、キリスト教色が強まり、反異教の動きも活発になった。イスラーム教徒に対する敵視と共に共に、十字軍運動以来ヨーロッパ各地で始まっていたユダヤ人に対する迫害がイベリア半島に及ぶようになった。特に1348年に黒死病の感染がイベリア半島に及ぶと、社会不安がユダヤ人に向けられるようになった。
 それまでイベリア半島にはヨーロッパの中で最も多くのユダヤ人が居住し、彼らは他のヨーロッパ地域に比較して、平穏な暮らしができたと言える。それはキリスト教国とイスラーム教国のせめぎ合いの中で、ユダヤ人は宮廷の財政や行政、外交交渉などに用いられ、その商業活動が王国の財政をさせていたという側面があったからであり、商人の中には高額の持参金で貴族と婚姻関係を結び上流社会に入り、中には高位の聖職者にまでなるものもあった。しかし、反ユダヤ感情が高まると、そのようなユダヤ人の立場も民衆から反感を買う要因ともなった。
1391年の反ユダヤ暴動 カトリックの聖職者や熱心な信者の中に異教徒の進出に対する恐怖心が強まるなか、1391年6月、セビリャでカトリック僧侶に煽動された民衆の暴動を起こし、ユダヤ人を襲撃する事件が起き、イベリア各地に広がった。
改宗者と非改宗者の対立 そのような迫害が始まったため、ユダヤ人の中にもキリスト教に改宗するものが現れ、ユダヤ人社会はユダヤ教徒と改宗者(コンベルソ=新キリスト教徒)の二つに分かれていった。コンベルソ converso とは、改宗(英語の convert ,conversion =改宗)者を意味したが、改宗者は依然として高い地位につくことも多く、そのため反ユダヤ人感情はその後も衰えず、たびたび暴動が起こっている。ユダヤ人に対する反感が強まる中で、ユダヤ人改宗者はユダヤ教徒を非難・攻撃したり、さらに改宗者の中でも熱心な新キリスト教徒は、改宗を装うだけで内心のユダヤ教信仰を捨てていないユダヤ人に対して激しく非難するようになった。

異端審問制の始まり

 熱心な改宗者たちは、自分たちの立場を守るために、偽キリスト教徒を取り締まることをイサベル女王に進言した。敬虔なカトリック信者であったイサベルも心を動かされ、1478年にローマ教皇に嘆願書を出し、セビリャで二人のドメニコ会修道会によって異端審問官を設置することが認められた。これがスペインの異端審問制度の始まりである。注意しなければならないのは、異端審問所はユダヤ教徒やイスラーム教徒に対する取締ではなく、新キリスト教徒の中の背信者を取り締まるために設けられたことである。最初の裁判は1481年2月6日に開かれ、6人が火刑に処せられた。異端審問所の設置は改宗者に大きなショックを与え、セビリャでは改宗者が群れをなして逃亡した。1483年にはスペインの初代の「宗教裁判所長官」にトマス=デ=トルケマダが任命された。トルケマダ自身がコンベルソであった。

ユダヤ教徒追放令

 スペイン王国のイサベル女王(カトリック両王)は、1492年3月31日にユダヤ教徒追放令を出し、キリスト教に改宗しないユダヤ人は、7月31日までに国外に退去することを命じた。この直前の1月には、スペイン王国軍がグラナダを征服してレコンキスタを完成させており、同年10月にはコロンブスアメリカ大陸に到達している。
(引用)イサベルのユダヤ人追放の決断は、結局のところ、偽装した新キリスト教徒の存在や、改宗者のユダヤ教への逆もどり現象が、ユダヤ人社会を抹殺しないかぎり根絶できない、という彼女の判断にもとづいてなされたもののようです。べつに人種的偏見があったわけでなく、またよく言われるように、国家統一の具に宗教を用いたというのではなく、純粋に宗教的な動機にもとづいていた、と言うのが真相だと言われます。・・・しかし、ことは単にイサベルやフェルディナンドの宗教的情熱の問題に過ぎなかった、と割り切るのはいけないと思います。彼らの背後には、当時のスペイン社会一般の要望、あえて言えば文化的要望がひそんでいたのです。それは中世の末期において、スペイン人の文化と精神のうちにひそやかにおこりつつあった、一つの質的転換とふかくからみ合っていたのです。宗教的な統一は、そうした文化変化のひとつのあらわれにすぎませんでした。<増田義郎『コロンブス』p.142>

国外追放か改宗か

 多くのユダヤ人がスペインから(次いでポルトガルからも)脱出した(約10万人を超えると言われている)。このようなイベリア半島がら逃れてヨーロッパ各地に広がったユダヤ人は、セファルディウム(セファルディ=ヘブライ語でスペインの意味)といわれれた。
 それに対して国外に出なかったユダヤ人はユダヤ教からキリスト教に改宗し、その証として洗礼を受けなければならなかった。彼ら、キリスト教に改宗したユダヤ人は「新キリスト教」、スペイン語でコンベルソといわれたが、改宗してもなお「隠れユダヤ教徒」ではないかと疑われ、偽装改宗者と疑われた者は蔑称としてマラーノ(豚の意味)ともいわれるようになり、常に異端審問(宗教裁判)の危険を伴った。また他のキリスト教徒からも厳しく差別され、迫害が続いた。
 なお、このときイスラーム教徒も改宗か国外退去かを迫られ、残って改宗した人々は「モリスコ」と言われた。

イサベル周辺の改宗者

 イザベル女王の周辺には、想像以上に改宗者が多かった。またコロンブスの航海を審査し、支持し、資金を供給した人の多くも改宗者だった。そういったことは当時のスペイン社会では当たり前のことだった。女王の側近や侍医、廷臣だけでなく、著名な学者にも多かった。彼らはイサベルに献金して、ユダヤ人追放令を思い止らせようとしたが、イサベルは首を横に振るばかりであった。

16世紀スペイン文化の開花と改宗者

 こうして追放令と異端審問によってスペインのユダヤ人社会は大きな打撃を受け、スペインの経済・産業の発展とともに学問や知識の面でも大きな打撃となった。その一方で、スペインにとどまった改宗者は心理的葛藤に直面し、自らを厳しく問うことになった。そこから「改宗者の創造的活力」が生まれたと言えるかもしれない。スペインの新大陸侵略を告発したラス=カサス、初めてカスティーリャ語の文法書を書いたネブリハ、歴史家オビエード、その他多くの文学者が改宗者であり、彼らがスペインの世紀と言われる16世紀の文化を担ったのだった。また、エラスムスの人文思想をスペインで発展させたのもビトリアなどの改宗者の人文学者であった。<以上、増田義郎『コロンブス』岩波新書のp.136-163 の要約>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

増田義郎
『コロンブス 』
1979 岩波新書

関哲行
『スペインのユダヤ人』
世界史リブレット59
2003 山川出版社