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カトリック両王/フェルナンドとイザベラ

スペイン王国を共同統治(1479-1504)したイサベラとフェルディナンドのこと。その統治のもとで、レコンキスタを完成させ、ヨーロッパでの大国化の基礎を造った。


イザベル(右)とフェルナンド(左)
山川出版社『世界各国史』16
 カスティリャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドは1469年に結婚し、1479年に両国が合同してスペイン王国となって、二人は共同統治者となった。しかし、二人の結婚には複雑な事情があった。イサベラは父はファン2世、母はポルトガル王家出身の女性だった。1454年、腹違いの兄エンリケが王位を継承するとイサベラの結婚問題が起こった。宮廷には親フランス派、親ポルトガル派、親アラゴン派がそれぞれの国の王子とイサベラを結婚させようとした。アラゴンはフランスの圧力を受け、経済的にも不振であったので、羊毛産業が勃興して豊かになりつつあり、領土もアラゴンの4倍、人口の6倍にあたるカスティリヤとの関係強化を望み、王子フェルナンドとイサベラの結婚を画策した。イサベラもそれを見抜いていたらしい。

イサベラとフェルナントの結婚

(引用)彼女とフェルナンドは、周囲の反対者たちの目をかすめてひそかにバリャドリーでおちあい、一四六九年十月十九日に、フワン・デ・ピベーロという個人の邸で結婚式をあげました。イサベル王女は十八歳、フェルナンド王子は十七歳という若さでした。というと、なにかロマンティックなかけおち結婚のようにきこえるかもしれませんが、とんでもない、事実はまさに政略結婚そのものでした。イサベルはフェルナンドに、そのときはじめて会ったのです。そして彼らの結婚は、アラゴン王でありフェルナンドの父であるフワン二世やトレドの大司教をはじめとするカスティリャ宮廷内の親アラゴン勢力によって推進され、結婚式に先立つ三月五日、セルベーラで契約をとりかわして定められたものでした。その結婚契約書には、カスティリャの優勢がはっきりとうたわれています。つまり、フェルナンドがカスティリャに住み、イサベルに政治的に従うことなどが明記されております。それから、契約のなかで重要なのは、異教徒に対する政策に関する条項で、当時まだイスラム教徒のグラナダ王国が残存しておりましたから、これを攻略することも約束されております。<増田義郎『コロンブス』岩波新書1979 p.123>

両王の即位

 1474年、カスティリャのエンリケ4世が死ぬと、イサベラは王位継承を宣言した。それに対して宮廷内の親ポルトガル派がエンリケの娘フアナの即位を画策、ポルトガルも援軍を送り内乱状態となった。イサベラは困難な立場になったが、76年のトロの戦いで反イサベラ派とポルトガル援軍を破り、79年に正式にカスティリャ女王となった。同年、アラゴンのフワン2世が死に夫フェルナンドがアラゴン王位に就いたので、夫婦で両国を治めることとなった。形の上では一つの国になったのではなく、それぞれ別の身分制議会(コルテス)を持ち独立した政治体系を守っていたが、結婚の契約にカスティリャの優位が明記されていたので、実質的にはカスティリヤへの吸収であった。

レコンキスタの完了

 そして、レコンキスタを推進して、1492年グラナダを奪還して、イスラーム勢力を半島からの駆逐してレコンキスタを完了させ、さらに北アフリカにも遠征した。

ポルトガルとの世界分割

 同じ1492年、イザベラはジェノヴァ人のコロンブスを後援して、その船団が西インド諸島に到達、スペインのアメリカ大陸進出の第一歩が始まった。大航海時代はすでにポルトガルがアフリカ西岸での南下を進め、1488年にはバルトロメウ=ディアス喜望峰に達し、インド航路の開拓を進めようとしていたので、スペインとポルトガル両国の間に勢力圏分割をめぐって対立が生じた。そこでスペインはローマ教皇アレクサンデル6世の調停を要請、1494年、植民地分界線として教皇子午線を定めた。この分界線はさらに両国の交渉によって1497年にトルデシリャス条約で西に移動されたが、ブラジルを除き南北アメリカ大陸に広大なスペイン領土をもたらす結果となった。

カトリック信仰による統一とユダヤ人の追放

 また二人は、統一国家の理念としてローマ=カトリック教会への信仰を掲げ、カトリックによる国造りを目指した。その一環として、厳しい異端の取締りのためにドメニコ会修道士による異端審問制度を始め、さらに、レコンキスタの完了の年であり、コロンブスのアメリカ到達の年でもある1492年に、ユダヤ教徒追放令(ユダヤ人追放令)を出した。そのためユダヤ人改宗者(コンベルソ)になるか、イベリア半島を離れるかを迫られ、その多くがイベリア半島を離れた。

イタリア戦争でのスペイン

 カトリック両王の時代は、中央集権化、絶対主義の基礎が固められた時代とされている。都市においては市会の制度を強化して、地方行政ではコレヒドール制を徹底させ、中央政治では枢機会議を設け、教会やや騎士団を統制し、羊毛産業を保護した。両王の内、フェルナンドは外交交渉に長けており、南イタリアのナポリ王国をめぐる問題、フランスや教皇庁との駆け引きでは、十分な外交的成果を挙げた。1494年、フランスのシャルル8世がイタリアに侵入してイタリア戦争が始まると、フェルナンドはローマ教皇アレクサンドル6世、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家マクシミリアン1世、ヴェネティア、フィレンツェなどと同盟を結んでフランス軍を撤退させることに成功した。

二人の墓碑銘

 グラナダのカテドラル教会堂にカピリャ・レアル、つまり王の礼拝堂と呼ばれる建物があり、その中にイサベルとフェルナンドのお墓があって二人の石棺が安置されている。その碑文には「この女王と王は、マホメット教の宗派を滅ぼし、頑強なユダヤ人たちを打ち平らげ、それ故にカトリック両王と呼ばれる。」とある。当時のスペインではこの二人の業績は、異教徒の征服という点のみに価値が置かれていたことが分かる。<増田義郎『コロンブス』岩波新書1979 p.130>
 しかし、フェルナンドとイザベラに対し「カトリック両王」の称号を与えたのは、1496年、ローマ教皇アレクサンドル6世であった。その直接の理由は、イスラーム教徒をイベリア半島から追い出したことや、新大陸でのカトリック布教を始めたことよりも、イタリア戦争で対フランスの闘いを優位に進めたことに対する賞賛であった。

スペイン王位、ハプスブルク家へ

 イサベルは1504年に、フェルナンド5世は1516年にそれぞれ没したが、二人のあいだに生まれたただ一人の男子ファンは1479年に亡くなっており、スペイン王位は娘ファナに継承されることになった。ファナはハプスブルク家のフィリップ(神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の子)と結婚していたが、精神障害があったため、王位継承には問題が生じた。ファナは実質的な女王の役割を果たすことができなかったので、その子のカルロス(カトリック両王にとっての孫)がスペイン王位を継承することになり、1516年にカルロス1世としてで17歳で即位した。このスペイン王カルロス1世(在位1516~56年)はマクシミリアンの孫でもあり、ハプスブルク家の血統であったから、スペインはハプスブルク家の領土に組み込まれることとなった。さらに彼はドイツ王を兼ね、1519年には神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世となる。こうしてハプスブルク帝国の繁栄の時代となる。
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書籍案内
増田義郎
『コロンブス 』
1979 岩波新書

岩根圀和
『物語スペインの歴史
人物編』
2004 中公新書