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ユダヤ教徒追放令

1492年、スペイン王国のカトリック両王が、レコンキスタの完了とともに出した法令で、カトリック教国であることを確定させた。

 15世紀末のスペイン王国で行われた、ユダヤ教の信者、つまりユダヤ人に対する改宗か、国外退去かを命じた法令。1492年1月にグラナダを陥落させてレコンキスタを完了したイサベル女王とフェルディナンド5世のカトリック両王が、同1492年3月31日に、このユダヤ教徒追放令(ユダヤ人追放令とも言われる)を発した。これは、サンタフェでコロンブスがイサベル女王と大西洋西回り航海に関する協約を取り交わす18日前にあたる。 → 1492年という年

イベリア半島でのユダヤ人

 ユダヤ人がイベリア半島に住み着いた年代は正確にはわからないが、ローマ時代に始まり、8世紀のイスラーム勢力の進出に伴って多くのユダヤ人が移住した。後ウマイヤ朝のイスラーム社会の中で既に活躍が目立っていた。南スペインのコルドバその他の都市ではユダヤ人は商人として経済的実力を持ち、また知識人としても重きをなしていた。イスラーム教徒はユダヤ人に寛容で、彼らがシナゴーグ(教会堂、集会所)を建てることも許可していた。

イスラーム政権下では共存

 10世紀ごろ、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が始まり、イベリア半島北部にはキリスト教国が生まれたが、それらのキリスト教の王国では、ユダヤ人の語学の能力を重要視してアラビア人との交渉に役立て、医師や科学者、教師、官吏としても重用されていた。
 ピレネーの北のヨーロッパでは、11世紀の終わり、十字軍時代になると、イェルサレムの異教徒に対する敵愾心が内部のユダヤ人に向けられるようになり、ドイツやフランス、さらにイギリスでもユダヤ人に対する迫害が始まった。ピレネーの南側のイベリア半島ではユダヤ人は比較的平穏に暮らしていた。カスティリャ王国アルフォンソ6世(在位1065~1109)の頃がスペインのユダヤ人が最も安定した時代だった。

ムラービト朝・ムワッヒド朝

 その頃(11世紀末)、モロッコからベルベル人のムラービト朝が侵入すると、彼らは異教徒に不寛容で、キリスト教徒(モサラベと言われた)やユダヤ教徒を迫害した。そのためコルドバに住んでいたユダヤ人は、北のキリスト教圏のトレドに移り、トレドのユダヤ人商人や知識人の活動が活発になった。
 ムラービト朝を滅ぼしてモロッコに登場したムワッヒド朝は原理的なイスラーム信仰を掲げ、より徹底した異教徒弾圧を行い、12世紀の中ごろ、イベリア半島に進出した。半島南部を支配したムワッヒド朝のユダヤ人弾圧によって、その多くがキリスト教国カスティリヤに亡命した。

ユダヤ教徒に対する迫害の始まり

レコンキスタ 国土回復運動(レコンキスタ)の進行する中でキリスト教国側でカトリック教会への強固な信仰が形成され、次第に不寛容となり、迫害が強まった。1212年、ラス=ナバス=デ=トロサの戦いでムワッヒド軍が敗れ、イスラーム勢力の後退が始まり、キリスト教側の優勢が明確になると、ユダヤ教徒優遇の意義がなくなり、他のヨーロッパ各地で十字軍運動ととも始まったユダヤ人に対する、激しい宗教的不寛容、排他的国家主義、商業的対立などがイベリア半島にも及んできた。そのようなユダヤ教徒・異端取り締まりの機関となったのが異端審問であった。

1391年の反ユダヤ暴動

 こうしてキリスト教社会でユダヤ人が一大社会勢力となると、それに対する反発も強くなった。こうして1391年にスペイン全土で大規模な反ユダヤ人暴動が起こった。1391年6月9日に、セビリャで始まった暴動は、集団ヒステリーのような状態でコルドバ、それからカスティリャ、アラゴンにひろがり、ついにバレアレス諸島にまで達した。各地でユダヤ人に対する略奪、虐殺がおき、約4000人が殺されたといわれる。
 その結果多くのユダヤ人が国外に逃亡し、また多くの改宗者(コンベルソ)が出た。或る学者は10万ないし15万人のユダヤ人がキリスト教に改宗し、キリスト教社会は俗にコンベルソといわれるユダヤ人集団を抱えることとなった。彼らはまた新キリスト教徒といわれ、以前からのキリスト教徒と区別された。<増田義郎『コロンブス』岩波新書 p.131-136>

1492年のユダヤ教徒追放令の影響と評価

 イベリア半島のキリスト教勢力はレコンキスタをすすめるうちに、イスラーム教徒に対する敵愾心から、強固なカトリック信仰が形作られていった。スペイン王国のカトリック両王も、熱心にローマ=カトリック教会の保護を行い、1492年にすべてのユダヤ人はキリスト教に改宗して洗礼を受けるか、4ヶ月以内の7月31日までに国外退去しなければならないとされた。その結果、15万ないし20万のユダヤ人がイベリア半島を去ったといわれている。
 ただしその評価については、最近では「ユダヤ人追放令」ではなく「ユダヤ教徒追放令」とし、追放されたユダヤ人の数も10万未満で経済に大きな影響を与えたものではない、という見解が見られる。その場合でも、この追放令で、スペインがカトリック宗教国家という性格を確定したという見方は動いていない。<立石博高編『スペイン・ポルトガル史』世界各国史16 p.145-147>
セファルディー 1492年のユダヤ教徒追放令によって、スペインのユダヤ人の隣国ポルトガルか、多くは遠くオスマン帝国のイスタンブルなどに移住した。スペインから離れたユダヤ人は「セファルディ(ヘブライ語でスペイン人を意味した)」と呼ばれた。彼らはイスタンブル以外にもオスマン帝国支配下の、中東に広がっていった。同じユダヤ人の離散民でもドイツに移住し、そこから東欧に広がった人々をアシュケナージと言い、この二つの系統はユダヤ人社会を二分する勢力として、違った道を歩むこととなる。
 スペイン国内に残り、キリスト教に改宗したユダヤ人はコンベルソと言われたが、厳しい監視の目が注がれ、また蔑称としてマラーノと言われるようになった。
 なおユダヤ教徒追放令は、1580年ポルトガルがスペインに併合されたため、ポルトガルでもが適用されることになった。そのため、ポルトガルのユダヤ人は、当時スペインから独立運動を展開していたプロテスタントのネーデルラント、アムステルダムに逃れた。
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書籍案内

増田義郎
『コロンブス 』
1979 岩波新書

立石博高編
『スペイン・ポルトガル史』
2000 山川出版社