異端審問
中世のカトリック教会による異端取り締まりの審問。16世紀の宗教改革期には宗教裁判所が反カトリック教会に対する厳しい弾圧を行った。
中世ヨーロッパのローマ=カトリック教会では異端は厳しく取り締まられていたが、13世紀のローマ教皇権が最も強大になった時期に、一方でワルド派やカタリ派(アルビジョワ派)の異端が増加したところから、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位1198~1216年)は対策を強化し、人々に異端告発の義務を課し、専門の異端審問官(教皇直属)を置く教会裁判制度をつくった。この裁判は、非公開、弁護なし、密告、拷問という手段で審理された。1233年にはローマ教皇グレゴリウス9世は審問権を教皇に集中させ、異端審問を開始、異端あるいは魔女と判定されれば世俗当局によって刑が執行された。
1479年にカスティーリャとアラゴンの統合が実現し、スペイン王国が成立した翌年の1480年、ローマ教皇は二人のドミニコ会修道会の修道士に対し、セビリャ地方で取り締まりに当たることを命じ、翌年、スペインで初の宗教裁判が開かれ、男女6人のユダヤ人が先祖の信仰に忠実であったという理由で火あぶりの刑に処せられた。1483年にはスペインの初代の「宗教裁判所長官」にトマス=デ=トルケマダが任命された。トルケマダは自身がユダヤ系であった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.159-160>
ユダヤ系のキリスト教徒の中でその信仰の真偽をめぐって争っていたのだった。
スペインの異端審問
カスティリヤ王国で1391年6月に、セビリャから大規模なユダヤ人襲撃が始まった。レコンキスタで激しくイスラーム教国と闘ったキリスト教国で、次第に異教徒に対する敵意が醸成されていたことが背景にあった。そのため多くのユダヤ人がユダヤ教を捨て、キリスト教に改宗するものがふえてたが、カトリック教会側は偽装改宗を疑い、その摘発を熱心に行うようになった。1479年にカスティーリャとアラゴンの統合が実現し、スペイン王国が成立した翌年の1480年、ローマ教皇は二人のドミニコ会修道会の修道士に対し、セビリャ地方で取り締まりに当たることを命じ、翌年、スペインで初の宗教裁判が開かれ、男女6人のユダヤ人が先祖の信仰に忠実であったという理由で火あぶりの刑に処せられた。1483年にはスペインの初代の「宗教裁判所長官」にトマス=デ=トルケマダが任命された。トルケマダは自身がユダヤ系であった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.159-160>
ユダヤ系のキリスト教徒の中でその信仰の真偽をめぐって争っていたのだった。
Episode 恐るべき異端審問官
異端審問の制度は、全キリスト教世界に広がったが、もっとも徹底されてたのは15世紀のスペインだった。1483年に成立したスペインの異端審問中央本部の長官トルケマダは、在職18年間に9万人を終身禁固に、8000人を火刑に処したと伝えられる。<森島恒雄『魔女狩り』岩波新書> → スペインのユダヤ人改宗者、コンベルソ 魔女裁判/魔女狩りドミニコ会修道士
疑いをかけられるとほとんど有罪となり、最高刑は火刑とされた。この異端審問の先頭に立って活動したのがドミニコ会修道会の修道士たちであった。彼等は熱心で敬虔なキリスト教徒信者であったが、こと異端に対する態度は狂信的で、徹底的な撲滅をめざして活動した。宗教改革と宗教裁判所
16世紀に宗教改革が始まりるとカトリック教会は強い危機意識を持ち、教皇パウルス3世は1542年にローマに宗教裁判所が設けられ、異端審問もそこで行われるようになった。1545年から1563年にかけてトリエント公会議後、カトリック教会はプロテスタント側との非妥協的、非寛容な姿勢を強め、対抗宗教改革(反宗教改革)を開始するが、その中心的な役割を宗教裁判所がになうこととなる。