印刷 | 通常画面に戻る |

五経大全

明の永楽帝が編纂させた五経の注釈書。『四書大全』などとともに朱子学の立場で公定註釈書として科挙の基準とされた。

 永楽帝が、科挙(明)の試験の基準として編纂を命じた五経の注釈書。『四書大全』、『性理大全』とともに1415年に完成した。
 五経とは、儒学の経典とされた、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五書のことで、漢の武帝の時、この五経を講義する五経博士がおかれ、儒学の官学化がはかられた。さらに五経は、唐代に科挙の受験の必須知識とされたため、その解釈を一定にする必要が生じ、太宗のとき、孔穎達に命じて『五経正義』を編纂させ、それが基準とされていた。

明の永楽帝による制定

 その後、宋の時代に宋学(朱子学)が興ると、それと異なる解釈が現れた。唐までの解釈を古註というのに対して、宋以降の解釈を新註という。そのため、あらたに公式の註釈を加える必要が生じ、永楽帝は『五経大全』を編纂し、公式解釈として制定させた。同時に『四書大全』も制定しており、広く捉えれば、永楽帝時代の『永楽大典』・『性理大全』などと並ぶ、国家による編纂事業のひとつであった。

永楽帝の編纂事業の評価

 永楽帝による編纂事業では『永楽大典』はその規模、内容、水準から、一般に高い評価が下されているが、『四書大全』・『五経大全』・『性理大全』(あわせて三大全ともいう)の編纂は評判は好くない。それは、官制の注釈書が作られたことによって、自由な考察ができなくなり、学術思想が統制されたことで、研究が発展しなかった、と批判されたからであった。しかし、この三大全で、経学(知識)が国民化(一般化)したことは、重要なことと評価すべきであるとの見解もある。<三田村泰助『明と清』1995 世界の歴史14 河出書房新社 p.67>
 明の時代には、永楽帝の「三大全」によって朱子学が国民化する一方、観念的、思弁的な朱子学に対して、より行動を重視する王陽明陽明学が興るという思想的変革の時代でもあった。
印 刷
印刷画面へ