ジェントリ/郷紳
身分的には平民であるが、地主として地域の名望家となり、州代表として身分制議会の下院議員に選出され、ピューリタン革命を担う勢力となった。17世紀以降はジェントルマンと言われるようになり、その上層部の大地主は産業革命を推進した主体となり、貴族として上院議員になるものもあった。
イギリス中世末期、中小の封建領主層であった騎士がが地方に土着して「地主(gentry)」となったものをいう。gentry とは「郷紳」とも訳され、身分的には「平民」であるが比較的豊かで、「貴族(nobility)」の次の階級にある地方の名士であることが多い。農村の生産者層であるヨーマン(yeoman)(独立自営農民)よりは上の身分に位置する。つまり、「貴族より下で、農民よりは上の社会層」と言われる。
イギリス革命は名誉革命を経て、国政としては立憲君主政、政治体制としては議会政治と政党政治、宗教としては国教会体制を確立させていく。
17世紀のイギリスのジェントルマンとは、地主として財産を有し、その賃貸料で生活し、政治や文化活動に専念できた人々である。ジェントルマンの上流である貴族は上院議員となり、その下流であるジェントリは下院の議席の多くを占めて、政治においても優位に立っていた。18世紀以降はそれに植民地で成功した人々なども加えられ、彼らは製造業には関心を持たず、もっぱら金融と海運などのサービス業に従事した。彼らの拠点がロンドンのシティである。イギリスの産業革命以降のイギリス経済の発展を担った人々は、産業資本家ではなく、このようなジェントルマンであった、つまりイギリス資本主義の特質は産業資本主義ではなく、ジェントルマン資本主義であった、という見解が現在有力になっている。
絶対王政を支える
ジェントリの中で上位を占めるのが、騎士(knight)である。騎士は本来は文字通り軍事的な職掌の称号であったが、13世紀には年収20ポンド以上の収入のある自由人は騎士と言われるようになっており、実質的には地主である。彼等は1295年の模範議会以来の議会(パーラメント)に州ごとに2名ずつ選出されて参加した。1330年代に下院(庶民院)が成立すると、都市代表とともにその多数を占めるようになる。特に彼らは無給の名誉職として地方の行政や裁判にあたる治安判事に任命され、王政を支えた。イギリス宗教改革
これらのジェントリは、信仰では新教徒に同情的なものが多くなっていった。テューダー朝のヘンリ8世が離婚問題からローマ教皇と対立し、イギリス宗教改革が始まると、議会の下院のメンバーであったジェントリーは国王を支持し、その代償としてヘンリ8世による修道院の解散によって没収された財産を買い取ることが出来た。こうしてイギリス国教会は、一時的なカトリックへの復帰の時期を経てエリザベス女王の時期に確立したが、それを支えたのはジェントリー層であったと言うことができる。ジェントリとイギリス革命
しかし、イギリス国教会は教義的には不徹底なところがあり、国教会に飽き足らないプロテスタントはピューリタンといわれるようになり、その中間層は長老派を形成し、分裂していった。次のスチュワート朝でピューリタン革命を起こす主体となっていったのは、ジェントリーでピューリタンとなった人々であった。その指導者クロムウェルもジェントリ出身のピューリタンで下院(庶民院)議員であった。イギリス革命は名誉革命を経て、国政としては立憲君主政、政治体制としては議会政治と政党政治、宗教としては国教会体制を確立させていく。
ジェントルマン
なお、ジェントリから生まれた言葉であるジェントルマンは、歴史用語としては17世紀以降の、イギリス社会で支配階級となった階層を意味するが、それは貴族と平民を含むジェントリといわれた人々を指している。政治的にはイギリス議会政治の中心となり、経済的には初期のイギリス資本主義を支えた人々であった。最近は「ジェントルマン資本主義」という説明がなされることが多い。17世紀のイギリスのジェントルマンとは、地主として財産を有し、その賃貸料で生活し、政治や文化活動に専念できた人々である。ジェントルマンの上流である貴族は上院議員となり、その下流であるジェントリは下院の議席の多くを占めて、政治においても優位に立っていた。18世紀以降はそれに植民地で成功した人々なども加えられ、彼らは製造業には関心を持たず、もっぱら金融と海運などのサービス業に従事した。彼らの拠点がロンドンのシティである。イギリスの産業革命以降のイギリス経済の発展を担った人々は、産業資本家ではなく、このようなジェントルマンであった、つまりイギリス資本主義の特質は産業資本主義ではなく、ジェントルマン資本主義であった、という見解が現在有力になっている。