印刷 | 通常画面に戻る |

海関

中国の清朝が設けた貿易の関税徴収機関。1685年に上海、寧波、漳州(厦門)、広州に置かれた。清朝政府は増大する海外貿易を管理・独占するため1757年に海外貿易を広州一港に限定した。

 海外との貿易の関税を徴収する税関のこと。中国では、唐に始まる市舶司があり、宋・元を通じて盛んに海外貿易が行われたが、明朝になってからは海禁策をとって民間貿易・海外渡航を禁止する一方、朝貢貿易は認めて貿易を政府が管理する体制をとっていた。そのような体制に反発した民間貿易の活力が倭寇の活動になって現れた、とも見ることができる。

康煕帝の海外貿易許可

 清朝政府も海禁と朝貢を対外・貿易政策の二本柱としていたが、特に海禁は鄭氏台湾という反清勢力を抑えるための側面も強かった。その鄭氏台湾を屈服させ、三藩の乱を平定して安定した統治を実現した康煕帝1684年遷界令を廃止した。これは海禁が解除されたことを意味している。
 その翌年の1685年に、海外貿易の受け容れ港として江海関(江蘇省上海)、浙海関(浙江省寧波)、閩海関(福建省漳州)、粤海関(広東省広州)の4ヶ所に、初めて海関をおいた。海外貿易を行いたい商人は、各級地方政府の渡航許可書を入手し、各港の番所で禁制違反の品物を持っていないかなどのチェックを受けてから出航が許された。禁制となった物資は武器、金銀、硫黄、硝石、銅などの鉱産物、食糧以外の米穀などであった。海外に商品として売られたのはそれまでも人気が高かった生糸、陶磁器に加え、江南産の綿布も「ナンキーン」と呼ばれて喜ばれ、18世紀になると茶が急速に輸出されるようになった。これらの品々は19世紀中頃まで中国がほぼ独占的に産出していた物である。<岸本美緒『明清と李朝の時代』世界の歴史12 1995 中央公論社 p.153-154>

主な港の特色

  • 江蘇、浙江では、上海寧波が対日貿易の中心となり、日本船は海禁が解除された翌年1685年には85隻が、88年には194隻が入港というふうに急増した。中国商戦は長崎に殺到した。それによる貴金属の大量流出を恐れた江戸幕府は貿易制限令を発し貿易高と船舶数の上限を定めた。日本からの輸出品は16世紀半ば以来、17世紀前半まではもっぱら銀であったが、幕府の輸出制限もあって急減し、代わって銅、次いで俵物(海産物)が主役となり、生糸や砂糖は自給するようになる。
  • 漳州(厦門、アモイ)は、南洋貿易の中心港として栄えた。厦門からマニラ、バタヴィア、ベトナム、タイなどの東南アジア各地に中国船が出航して行った。特に山がちで人口の多い福建では、人口圧力と海外貿易依存度の高さから、東南アジアへの南洋華僑として移住していった。清朝政府は海外に移住した中国人が反清活動と結ぶことを恐れ、華僑を保護することなく放置したので、華僑の中には遺棄されたという感情が強くなった。
  • 広州(欧米人はカントンと呼んだ)は外国船の来航の中心地であった。18世紀の前半には年間平均10~20隻が来航したが、この段階では中国商船の活動に較べてまだ少なく、その活動の重要性はそれほどでもなかった。欧米船の重要性が増してくるのは18世紀半ば以降である。

広州一港への制限

 17世紀から18世紀の前半、ヨーロッパ各国では産業革命の前段階である工場制手工業が発達し、経済も大筋で好況を呈していた。そのような状況を背景に、この時期からイギリス船やオランダ船などヨーロッパの商船が盛んに中国に来航するようになった。あいかわらず中国産の生糸、陶磁器、綿布などがヨーロッパ商人に買われ、大夏として銀が支払われたので、中国への銀の流入が続いた。そのような中で乾隆帝は、1757年に外国貿易を広州だけに限定することに踏み切った。
広州限定の事情 清朝の海関制度では4つの港が開かれていたが、外国船は特に規定があったわけではなく、広州に集中していた。その過程で広州の海関の役人は多額の手数料を取るなど外国商人から利益を吸い上げていた。外国商人側では次第に広州以外での取引を望む声が強まり、1755年にイギリス東インド会社の船が負担の軽い寧波に入り交易を求める事件がおこった。広州の当局と商人は外交貿易の利益が分散することを恐れ、清朝政府に寧波での交易を認めないよう請願した。その結果、1575年に外国貿易は広州一港に限定されることになった。このようにこの広州一港化命令は現状維持を目的とする者であって、対外貿易そのものを積極的に制限しようとする意図はなかった。外国貿易は広州で厳しく管理されるようになったが、それによって貿易量が減少してはおらず、むしろ広州での欧米諸国との貿易額は急増していく。
カントン・システム 1757年に完成した、欧米船の来港を広州一港に制限し、広東十三行公行)といわれる特定の商人に独占的に取引させる制度を、欧米ではカントン・システムといった。広州のことをカントンと呼んだからである(広州は市の名前で広東は省名)。
 つまり、これは乾隆帝が海禁策に戻ったわけではなく、また広州で行われた貿易は朝貢貿易ではないので注意しよう。朝貢貿易は中国王朝と冊封関係にある国との間で行われるものであるのに対して、広州での外国との貿易は冊封関係のない国との対等な貿易であり、互市貿易という。広州での貿易は互市貿易にあたる貿易体系である。

その後の貿易管理制度

 なお、海関が置かれたことによって、民間貿易を一切認めないという海禁政策ではなくなっているが、海外移住は依然として禁止されていた。また広州一港体制となってからは外国貿易は広州以外ではできなくなった。外国商人側は、広州以外の港で、公行以外の中国商人とも自由に取引をしたいと思うようになる。おりからヨーロッパでは貿易を国が管理する重商主義の時代は終わろうとしており、自由貿易の声が強まっていた。このカントン・システムを破棄して自由貿易を認めよというイギリス商人の要求が強まり、それが1840年のアヘン戦争へと高まっていく。その結果、南京条約で公行は廃止されたが、現実には不平等条約の下で関税自主権を失い、貿易の実権をイギリスなど外国人に握られる貿易管理体制となる。さらに太平天国の乱の混乱の中から、1858年に上海にイギリス人総税務司がおかれて貿易事務が管理されることとなった(洋関という)。外国人による海関管理は中華人民共和国の成立まで続くこととなる。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

岸本美緒/宮嶋博史
『明清と李朝の時代』
世界の歴史12
中公文庫 初刊1998