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ネイピア

1834年にイギリスから中国に派遣された貿易監督官。自由貿易を要求し軍艦を率いて交渉したが失敗した。

 ネイピアはイギリスの海軍軍人。スコットランドの出身で、19歳でトラファルガー海戦に参加し負傷した。海軍退官後はスコットランド選出の上院議員となる。東インド会社中国貿易の独占権廃止によって中国貿易を政府が直轄することとなり、1834年、中国駐在貿易監督官としてマカオに派遣され、広州に強行上陸して清朝政府との交渉に当たろうとしたが失敗し、マカオで死去した。

東インド会社貿易独占廃止後の貿易監督官となる

 イギリスは1793年のマカートニーや1816年のアマーストの二度、清朝の皇帝に対する特使として派遣して、貿易の拡大と自由化を要求していた。しかし、欧米船を広州一港に限定して高校に貿易を管理させるという従来の互市貿易の原則を譲らない清朝によって、いずれも交渉は拒否されていた。
 産業革命が進行して、イギリス国内で自由主義改革と共に、自由貿易主義政策が採られるようになる中で、1833年に東インド会社の対中国貿易の独占を廃止が決定され、翌34年に実行された。こうしてようやくイギリス側の対中国貿易が自由化され、多くの貿易商が参加できることになった。しかし清朝は依然として互市貿易(清朝管理下の外国貿易)も皇帝の恩恵として行っているという立場を変えず、広州一港での、しかも窓口は公行のみとする従来の形式を厳守していた。

中国に対する最初の武力行使

 1834年、清朝と三回目の交渉という大役を与えられたネイピアは広州に至り、前二回が武力を伴わない交渉であったのに対し、今回は軍艦を率いて広州に乗り込むという、武力を背景とした交渉を行った。ネイピアは軍艦に乗ってマカオを発ち、広州湾の奥に入り、当時外国船の立ち入る限度とされていた虎門をすぎ、7月24日夜、広州に上陸し、商館を設置して英国旗を掲げた。ネイピアは清朝の両広総督と直接交渉を申し込んだが、総督は従来通り、公行を通してでなければ貿易を受け付けないと拒否し、退去を命じた。ネイピアが退去に応じないので、総督は商館を武力で閉鎖し、食糧の供給を絶った。ネイピアは報復として待機していた軍艦に、虎門寨の清朝の砲台を砲撃させた。これが、イギリスが中国に対して行った、最初の武力行使であった。両者はなおにらみ合いが続けたが、ネイピアがマラリアにかかったためマカオに戻り、交戦はそれ以上は拡大しなかった。マカオに戻ったネイピアは、まもなくその地で死去した。
 ネイピアの強気の交渉は、彼を派遣した本国政府の外相パーマーストンの訓令、および現地でアヘン密貿易に従事していたジャーディン=マセソン商会などの強い要求がその背景にあった。このころから、イギリスは、清朝政府の「尊大な態度」を変え、「対等な外交」、「自由な貿易」を実現するには、武力の行使もやむ無しと考えるようになった。それが、6年後の1840年、アヘン戦争の開戦となる。その結果、イギリスは1842年の南京条約で公行の廃止を清に承認させ、目的を達成する。
 ネイピアの清朝との交渉、およびその時の通訳に当たった宣教師ロバート=モリソンが、どのように交渉したかについては<柳父章『「ゴッド」は神か上帝か』2001 岩波現代文庫 p.17->に興味深い説明がある。
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書籍案内

柳父章
『「ゴッド」は神か上帝か』
2001 岩波現代文庫