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ウズベキスタン共和国

1991年、ソ連の解体にともない独立した、中央アジアの西トルキスタンのウズベク人を主体とした国家。

ウズベキスタン地図
ウズベキスタンの位置
 1991年、ソ連の解体に伴い主権国家として独立した。中央アジア5ヵ国の中で最も人口が多い。人口は約2700万、面積は約44万7400平方キロ(日本の約1.2倍)。首都はタシケント。人種はウズベク人が80%、他にロシア人、タジク人(イラン系)、カザフ人など。言語はトルコ語系のウズベク語を公用語としているが、タシケント・サマルカンドなどではイラン系のタジク語も多い。また長いロシア・ソ連時代の歴史的背景から、現在もロシア語が通用する。都市の看板などはウズベク語(ラテン文字表記)とロシア語(ロシア文字表記)が併用されている。宗教はイスラーム教スンナ派。都市にはモスクが多く、サマルカンドブハラなどには聖者の遺跡、マドラサなどが多数見られる。しかし、イスラーム信仰は厳格ではなく、一般市民は西欧と同じ生活を送っている。これもロシア・ソ連時代の宗教排斥の影響が続いているためであろう。独立を達成してからは歴史的伝統としてのイスラーム文化の見直しや、国民統合の象徴としてティムールを建国の英雄として顕彰することが目立っている。
ウズベキスタンの国旗 青は空と水、白は平和、緑は自然を表す。三日月はイスラーム教国のシンボル。12の☆は十二宮を表す。1991年制定。
ウズベキスタンの世界遺産 サマルカンドブハラヒヴァ、シャフリサーブス(ティムールの生誕地)、ボイスンの5ヶ所が世界遺産とされている。

国土

 国土は東西に広がっており、東のパミール高原を源流として北にシル川、南にアム川の二本の大河が西流し、アラル海に注いでいる(現在では遼河の上流に潅漑用のダムが作られたため、ほとんど干上がっている)。かつてマー=ワラー=アンナフル(川の向うの地)といわれた豊かな土地である。中心はタシケント-サマルカンド-ブハラを結ぶ線で、都市周辺には豊かな小麦、綿花、ぶどうなどの畑が、郊外には広大な草原が広がり牧畜が行われている(現在では遊牧は行われていない)。東にカザフスタンとキルギス、タジキスタンに囲まれた形でフェルガナ地方(古代の大宛、旧コーカンド=ハン国)があり、西にはキジルクム砂漠で隔てられてウルゲンチとヒヴァを中心とした旧ホラズム王国、旧ヒヴァ=ハン国がある。アム川下流とアラル海南岸はカラカルパクスタン自治共和国となっている。

現代のウズベク人とは

 現代のウズベキスタン共和国を構成する「ウズベク人」という概念は比較的新しいもので、1924年の民族的境界画定の時の区分では、
  1. 時に他からサルトなどと呼ばれた、部族的伝統を持たないトルコ系の定住民(自称ではチャガタイ)
  2. 古来のトルコ系諸部族及びモンゴル侵攻期にトルキスタンに入ったトルコ-モンゴル系諸部族の末裔で定住民と交わらず半遊牧的な部族生活を保持していた集団
  3. 15世紀末にキプチャク(カザフ)草原からトルキスタンへ移動、定着したウズベク諸部族の末裔
の三種からなる多種多様な方言を話す人々であった。<小松久男『革命の中央アジア』1996 東大出版会 p.246>


ウズベキスタンの歴史

ウズベキスタンの歴史は、前近代はイスラーム以前とイスラーム後に分け、さらに後者をモンゴルの侵入の前後に分け、近現代はロシア植民地時代と、ソ連邦時代、現代の3時期、計6時期に分けることが出来る。

イスラーム以前のウズベキスタン

 現在の中央アジア5ヵ国は、前近代ではほぼ西トルキスタンにあたるので、ウズベキスタン単一の歴史は成立しない。民族的にも文明期に最初に活動したのはペルシア帝国以来のイラン系民族であった。また、アレクサンドロス大王の遠征によりギリシア人の植民やヘレニズム文化の影響がおよんだ。特にサマルカンドを中心としたイラン系のソグド人はシルクロードの東西貿易で活躍、アム川とシル川にはさまれた豊かなオアシス地帯はソグディアナと言われた。その都が現在のサマルカンドである。前2世紀から後3世紀頃の大月氏、クシャーナ朝もイラン系民族であった。5世紀になると委乱高下のササン朝と対抗してサマルカンド周辺を支配したエフタルも支配層はイラン系と考えられている。そのエフタルをササン朝と協力して滅ぼし、6世紀に中央アジアに勢力を伸ばしたのは、トルコ系遊牧帝国の突厥であった。このようにこの地のオアシス都市では遊牧民諸王朝が興亡した時代が続いた。

中央アジアのイスラーム化

 8世紀にイスラーム勢力がアム川を超えてソグディアナに侵攻し、イスラーム化が始まる。一方、東方からはの勢力が及び、751年にはアッバース朝との間で中央アジア北方のタラス河畔の戦いがあり、アッバース朝の勝利によって西タクラマカン一帯のイスラーム化は決定的となった。

イスラーム後のウズベキスタン

 875年には中央アジア最初のイスラーム教国、イラン系のサーマーン朝ブハラを都に成立。ブハラはその後、ハディースの編纂者ブハーリーなどを輩出し、スンナ派イスラーム神学の中心地となる。有名なイブン=シーナーもブハラの生まれである。その後、9~10世紀にはトルコ系カラ=ハン朝がおこり、やはりイスラーム化した。11世紀西方のイリ川下流域にセルジューク族が興り、彼らはイラン高原から西アジアに進出していった。カラ=ハン朝がセルジューク朝に押されて衰退した後、12世紀にこの地域は東方から移動してきた契丹人がカラ=キタイ(西遼)を建国した。その後、13世紀にはホラズム王国がアム川下流に興ったが、そのころモンゴル高原にモンゴル帝国が出現し、ユーラシア内陸の情勢は大きく変動する。

モンゴル侵入後のウズベキスタン

 1220年に中央アジアに侵攻したモンゴルのチンギス=ハンによってサマルカンドは破壊され、ホラズム王国も滅ぼされ、それ以後モンゴル人の支配が続くが、文化的には依然としてイラン人が支えていた。チャガタイ=ハン国のもとで次第にトルコ人の文化が形成され、次のティムール帝国のもとでトルコ=イスラーム文化が開花し、復興したサマルカンドがその中心地となる。ティムール帝国の分裂、衰退後、北西部から移動したウズベク人がシャイバニ朝を成立させるが、間もなくブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国(ホラズム地方)、コーカンド=ハン国(フェルガナ地方)の三国に分裂。

ロシア植民地時代

 19世紀後半にロシアが進出してきて、コーカンド=ハン国は滅亡し、1867年にはタシケントにトルキスタン総督府が置かれそのロシアの植民地となり、ブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国は保護国となった。この間、ロシア人の移住があいつぎ、ロシア化が進むが、それに反発したトルコ民族のなかに民族としての自覚も強まり、19世紀末にはジャディードという改革運動も始まる。

ロシア革命とウズベキスタン

 1917年、ロシア革命(第2次)が起こると、民族独立を求める運動と、社会主義国家建設をめざす勢力とが対立するようになり民族主義と社会主義という困難な問題に直面する。ソ連のレーニンやスターリンは民族の自治を認めながらあくまで社会主義という普遍的な価値を優先したため、民族派は次第に排除されることになる。その対立はフェルガナ地方や東ブハラ(現タジキスタン)から始まった反ソ武装闘争であるバスマチ運動となって激化し、内乱状態となった。1924年、バスマチ運動を鎮圧したロシア共産党は、中央アジアの民族的境界画定を行い、5共和国に分けることにし、従来のブハラにサマルカンドとタシケントを加え、さらに旧ハン国のコーカンド(フェルガナ)とヒヴァ(ホラズム)を加えてウズベク=ソヴィエト社会主義共和国とし、ソヴィエト社会主義共和国連邦を構成する自治共和国に加えた。社会主義体制のもとで、イスラーム法に代わるソヴィエト法の適用、アラビア文字に代わるロシア文字(キリル文字)の使用、女性の解放などが行われたが、伝統的な民族文化を除去することは出来なかった。経済的にはソ連邦の計画経済に組み込まれ、自給自足は否定されて綿花単作農業を押しつけられ、綿花や地下資源などの原料をロシアに提供し、工業生産はロシアに依存するということになった。

現代 社会主義からの離脱、独立

 1980年代後半からのソ連のペレストロイカはウズベキスタンなど5ヵ国にも影響を与え、ソヴィエト体制の見直しが始まり、1989年の東欧革命による社会主義圏の激変を受けて、1991年のソ連の解体によって社会主義から離脱し、ウズベキスタン共和国として独立し独立国家共同体(CIS)に加わった。社会主義共和国末期の1990年に大統領に当選したカリモフが初代大統領となり、その後、憲法改正や国民投票などの手段で任期を延長し、長期政権を維持している。経済的にはアメリカ、日本との関係を強め、イスラーム過激派の活動を認めず、アメリカのアフガニスタン派兵に協力している。しかしその独裁に近い政治に対しては人権抑圧の批判も起きている。
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