藩王国
イギリスのインド植民地支配下で一定の自治を認められて存続した地方政権。イギリスは個別に藩王と軍事保護条約を結び、間接的な支配を行った。
漢字で表記されるが、近代インドでの用語なので注意すること。中国での藩王と区別する。ムガル帝国の衰退後に、各地で自立した地方政権(マラーター、マイソール、ハイデラバードなど)をいう場合もあるが、一般には藩王国とはインドの植民地化が進んだ時期に、東インド会社の直轄領とはならずに、旧来の支配者が一定の自治権を認められた地域をいう。王国を称しているが、独立した国家とは扱われず、軍事と外交をイギリスに握られている保護国に該当する。イギリスは直轄領以外はこの藩王国を通じて間接的に統治した。
藩王国は英語では Indian States あるいは、Native States という。日本ではかつて後者を直訳して「土侯国」といわれたこともあったが、これには差別的な響きがあるところから現在では歴史用語としては使われない。日本の「藩」のイメージに近いことも、藩王国という用語が定着した理由だろうか。
これらの戦争で分立する政治勢力と軍事保護同盟を結ぶことによって支配を固めていった。名目的には独立政権であるが、イギリスと軍事保護同盟を締結した政治勢力は「藩王国」といわれるが、それには次のようなトリックがあった。
藩王国は英語では Indian States あるいは、Native States という。日本ではかつて後者を直訳して「土侯国」といわれたこともあったが、これには差別的な響きがあるところから現在では歴史用語としては使われない。日本の「藩」のイメージに近いことも、藩王国という用語が定着した理由だろうか。
軍事保護条約の締結
イギリスは、戦争によってインド支配を拡大していった。特にイギリス東インド会社軍による18世紀後半から19世紀初めに顕著で、主なものに1764年のブクサールの戦い:ムガル皇帝・ベンガル太守・アワド太守の連合軍との戦い。1767年から1799年のマイソール戦争:南インドのマイソール王国との戦争。1775年から1818年のマラーター戦争:マラーター同盟との戦争。デカン高原西部からデリーなど中枢部を征服。1845~1849年のシク戦争:シク王国との戦争。パンジャーブを併合。などがある。これらの戦争で分立する政治勢力と軍事保護同盟を結ぶことによって支配を固めていった。名目的には独立政権であるが、イギリスと軍事保護同盟を締結した政治勢力は「藩王国」といわれるが、それには次のようなトリックがあった。
(引用)軍事保護同盟とは、通常、その国を軍事的に保護することを名目に、イギリスが軍隊および駐在官を駐留させ、費用はその国が負担する関係をいう。被保護国は、他国との関係についてイギリスの承認なしには何の交渉も成しえず、外交権の喪失をも意味していた。また、イギリスは、しばしば内政に干渉し、巨額の軍事費を要求し、やがて条約を結んだ国は経済的に破綻し、ついには領土を割譲せざるを得なくなることが多かった。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.141>
藩王国の例
- ニザーム政権 イギリスが最初に軍事保護同盟を結んだのが1798年のハイダラーバードにあったニザーム政権であった。
- マイソール 1799年にマイソール戦争に敗れたマイソール王国は、オデヤ家が藩王を継承、領土縮小の上、軍事保護条約を受け入れた。
- アワド かつてのムガル帝国の終身部を占めていたアワド太守は、1801年に軍事保護条約を受け入れた。
- カーナティック 同じく1801年、カーナティックのナワーブはティプー=スルタン(マイソール王国)殿内通を理由に、領土を奪われた。
- マラーター マラーター地方にはマラーター王国の世襲宰相(ペシューワー)は1802年にイギリスと軍事保護条約を結んだ。その後もマラーター同盟の諸侯はイギリスに戦いを挑んだが第二次マラーター戦争で敗れ、それぞれ軍事保護同盟を結ばされた。軍事保護同盟を受け入れたマラーターの諸勢力は、軍隊を解体させられ、その結果失業した兵士たちがピンダーリーと呼ばれる夜盗と化して各地を荒らし回った。
藩王国とりつぶし政策
インド植民地化を進めたイギリスは18~19世紀前半には従属を拒否したマラーター同盟、マイソール王国、シク王国などを次々に武力で制圧し、その地を併合していったが、その一方でイギリスと友好関係を結び、その保護に入った王国に対しては藩王国としての一定の自治をみとめるという二面の政策をとった。しかし、東インド会社のベンガル総督ダルフージーは、全インドを直接統治下に置くために「失権の原則」を打ち出した。それは藩王国に対して後継者がいない場合にはイギリス領に編入するという「藩王国とりつぶし政策」と言って良いものであった(江戸幕府の大名統制策と同じ)。これに対しては反発が強く、インド大反乱(シパーヒーの反乱)勃発の原因の一つでもあった。その後のインド帝国においても藩王国は存続し、1947年のインド・パキスタン独立で消滅する。分割統治
もう一つの藩王国を統治するための策が「分割して統治せよ」という古代ローマが征服地の都市に対してとった政策に倣ったものである。この分割統治はイギリスが藩王国とそれぞれ個別の条約を結び、藩王国どうしの結びつきができないようにして、互いに競わせようとするものであった。イギリスの植民地支配の基本的な方策であった。帰属問題
イギリス植民地支配下のインドには、ハイダラバード、カシミールなど大きなものから全部で約600の藩王国が存在した。藩王はマハラージャといわれ、その家系は現在のインドにおいても地方名士として重きをなしているようである。またこれらの藩王国は1947年のインド・パキスタンの分離独立 に際しはその帰属が問題となった。カシミールでは藩王と住民の宗教的対立もからんでインド=パキスタン戦争の原因となり、現在も紛争が続いている。