イギリスの議会制度
13世紀の身分制議会に始まり、14世紀には二院制が成立。絶対主義には王政を支えたが次第に下院が力をつけ、ピューリタン革命・名誉革命を経て17世紀には議会政治が定着し、政党が形成された。産業革命以降は下院議員選挙での選挙権拡大が焦点となり、20世紀に普通選挙、男女平等選挙が実現する。
現代の議会政治の源泉とすることの出来るイギリス(2)での議会制度の形成過程は次のようにまとめられる。なお、イギリス以外の議会制度の概要については議会の項を参照。
議会以前の王政補助機関
ノルマン朝のウィリアム1世はアングロ=サクソン時代の王がもっていた賢人会議を継承した大貴族による大会議と、側近貴族から成る小会議を開催していたが、それらは貴族のみがかかわる諮問会議に過ぎず、議会の起源とは言えない。ノルマン朝の王権は征服王朝としての強みがあったので、議会が生まれる余地はなかった。(1)中世の身分制議会
議会の源流
近代的な議会の源流となるのは、1215年のプランタジネット朝のジョン王の時の大憲章(マグナ=カルタ)である。これによって貴族・教会・都市の有していた封建的特権を国王が承認し、国王が軍用金などを徴収するときは貴族・僧侶の評議会を経なければならないとされた。マグナ=カルタはしばしば無視されたが、後々も国王が新たな課税に際しては議会を開催してその同意を得なければならない原則の根拠となった。モンフォール議会
1265年、ヘンリ3世がマグナ=カルタを無視し課税を強行しようとしたのに対して、貴族側はシモン=ド=モンフォールを指導者として反乱を起こし、王を捕虜にして議会(パーラメント perliament)を開催することを認めさせた。これがモンフォール議会で、従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表を参加させた。これが実質的な議会の始まりであるが、シモン=ド=モンフォールも間もなく国王軍に逆襲されて殺害され、この議会は定着することはなかった。模範議会
次のエドワード1世は、ウェールズやスコットランドに遠征してブリテン島の統一をめざし、その戦費の調達のために1295年に議会を招集した。この議会は「模範議会」と言われ、大貴族、高位聖職者、各州より騎士2名、各都市より市民2名が召集された。これは中世の身分制議会の典型例であり、近代の議会制度の母体となるものであるが、この段階では国王の一方的な諮問に答える機関であり、その議員も国民の投票によるものではなく、身分別の団体の代表であった。しかし、ここで騎士と市民という「コモンズ」の代表が議会に参加するようになった意義は大きい。騎士とは実体は農村の土地貴族ジェントリ(郷紳)であり、彼等が新興勢力として国政に参加するようになったと言うことが出来る。上院・下院の成立
1330年代のエドワード3世のころ、貴族・聖職者から構成される上院(貴族院、ハウス・オブ・ローズ)と、騎士・市民代表から構成される下院(庶民院、ハウス・オブ・コモンズ)が分離するようになった。また単に課税のみならず、一般的な立法においても、まず下院が「請願」し、上院が審議して、国王が決定するというプロセスが出来上がった。まもなく百年戦争に突入するとその戦費を認めてもらうためにも国王は議会を頻繁に開くようになり、議会制が次第に整備されていった。しかしこの段階では主導権はまだ国王・上院にあり、下院は請願権のみに限定されていた。1376年の議会では、下院が国王側近の汚職を上院に告発し、議会が政府を弾劾する権利を初めて行使し、「良き議会」(good perliament)と言われた。しかしこの議会は翌年、ランカスター公によって解散させられた。絶対王制下の議会
百年戦争、バラ戦争が続く中で封建領主層は没落し、テューダー朝で相対的に王権が強化されと国王と議会の関係は円滑ではなくなった。ただしヘンリ8世やエリザベス1世は議会を無視することはなく、重要法令決定は議会でおこない、議会は絶対王政を補完する機関となったが、あまり開催されなくなった。そのころから社会は大きく変動し、農村のジェントリーに続いてヨーマンという自作農が成長し、都市では商工業者が自由な営業を求めるようになってきた。彼等は議会の下院を通じて要求を実現しようとし始める。(2)イギリス革命と議会
ピューリタン革命
17世紀のステュアート朝になると議会は大きな政治勢力となり、国王と決定的に対立するようになった。ジェームズ1世は王権神授説を掲げ、イギリス国教会の立場からピューリタンを弾圧したため、ピューリタンのジェントリが多くを占める議会との対立が表面化した。次のチャールズ1世も国王大権で戦費調達のための課税をしようとしたため議会は反発し、1628年に権利の請願を提出し、議会の承認なしに課税しないこと・国民を法律によらず逮捕しないことを要請した。しかし国王はそれを無視して議会を解散、以後10年以上にわたって議会は開催されなかった。短期議会と長期議会
1640年、スコットランドの反乱を鎮圧するための戦費に困った国王は、ようやく議会を招集したが、直ちに衝突したためわずか3週間で解散させるという短期議会となった。しかし、戦局の不利が続いたためやむなく再招集した長期議会において、王党派と議会派の対立は内乱に発展し、ピューリタン革命が勃発した。共和制の実現
その過程で権力をにぎったクロムウェルは、国王チャールズ1世を処刑、共和政(コモンウェルス)を実現させた。議会では上院が廃止され、一時は一院制となった。しかし、共和制と言っても議会はクロムウェル派の軍人が選ばれたに過ぎず、国民が選挙で選ぶのではないので民主政治とは程遠く、むしろクロムウェルは、平等な選挙による議会の設置などを要求した水平派を厳しく弾圧し、護国卿として軍を基盤とした権力を行使した。名誉革命
クロムウェル独裁は長続きせず、1660年に王政復古となり、チャールズ2世のもとで長期議会が復活、二院制に戻った。しかし、チャールズ2世はカトリック復興を企てたため、議会との対立が再び先鋭化した。議会はカトリックに固執する国王を追放し、プロテスタントである国王メアリ2世とウィリアム3世をオランダから迎え、二人は議会が決議した権利の宣言を権利の章典として公布した。この名誉革命によって、立憲君主政という政治形態と共に、イギリスの議会政治の原則が確立したと言える。 → イギリス(5)(3)近代議会制度の形成
政党政治
王政復古期のチャールズ2世の時、議会には、王権と妥協的なトーリと、非妥協的で改革を進めようとするホィッグとそれぞれ相手から言われた党派が生まれた。この両派は名誉革命では一致して議会主権の確立で協力し、それ以後は議会内の政党として発展し、政党政治という近代以降の議会政治のモデルケースとなっていった。議院内閣制(責任内閣制) それが明確になっていったのは、ドイツ生まれのジョージ1世が新たな国王として招かれ、ハノーヴァー朝が成立し、実際の政治が議会で多数を占めたホイッグ党の指導者ウォルポールが1721年に内閣を組織し、国政に当たった時期においてであった。1742年2月、ウォルポールはホイッグ党が選挙で敗れて議会で少数派になった時に辞任し、議会の多数派が内閣を組織し、内閣は議会に対して責任を持つという責任内閣制(議院内閣制)の最初の例となった。
選挙法の改正
18世紀の後半になると、産業革命に伴って、封建領主層の没落、産業資本家層の勃興、農村から都市への人口集中、都市の賃金労働者層の増大といった大きな社会変動が起こった。にもかかわらず従来の身分制議会時代のまま、選挙権は貴族・地主の特権とされ、産業資本家(ブルジョワジー)や労働者階級、そして女性は排除されていた。その矛盾は次第に拡大し、議会が国民を代表する機関としては機能できなくなってきた。それは国王以下の国家統治者としても見過ごすことのできない変化だったので、トーリ・ホイッグ両党とも、選挙法の改正は避けて通れなくなっていった。19世紀に入り、産業革命(第1次)が終局の段階に入ると、1830年代から次の20世紀の初めまでの間に、次のような5次にわたる選挙法改正が行われることとなった。それぞれの時期と、新たに選挙権を獲得した層、および有権者の全国民に対する割合をまとめると次のようになる。
第1次 1832年 産業資本家に拡大。および腐敗選挙区の廃止。 → 4.5%
第2次 1867年 都市労働者に拡大。 → 9%
第3次 1884年 農村労働者に拡大。 → 19%
第4次 1918年 男子21歳、女子30歳の普通選挙に。 → 46%
第5次 1928年 男女21歳。 → 62%
下院の優越
下院の選挙権は拡充されたが、上院は依然として貴族・地主層が特権階級として独占を続けており、下院で多数決で議決された法案も、上院の否決によって成立しないことが続いた。20世紀に入って勢力を伸ばした自由党は、その解決に取り組み、アスキス内閣のとき、ロイド=ジョージなどの尽力で、1911年に議会法を制定して、(1)上院は予算案を否決、または修正することは出来ないこと。(2)一般法令は下院が3会期引きつづき可決すれば、上院が否決しても法律として成立すること。という2点を決定して議会の議決における下院の優越を定めた。現在の日本国憲法などにもつながる下院優先の原則が確立したといえる。 → 上院(貴族院)イギリスは「議会主権」
イギリスは「議会主権」の国と言われる。日本では国会は「国権の最高機関」と位置づけられているが、憲法上の主権者はあくまで国民であるので「国民主権」である。日本には馴染みの薄いこの「議会主権」とはどのような意味であろうか。(引用)議会主権とは、議会の制定する法律がより高次のいかなる法によっても制約されることがなく、いかなる権威も議会の制定する法律を否定できないことを意味する。議会は何者にも拘束されないのである。<高安健将『議院内閣制―変貌する英国モデル』2018 中公新書 p.3>イギリスでは、主権をもつ議会を国民が選ぶことから事実上国民主権が成立するとはいえ、国家構造上、主権自体は依然として議会にあると考えられている。それは議会主権の確立が、歴史的には議会による王権乗っ取りのプロセスであったからだ。16世紀のチューダー絶対王政を、ピューリタン革命を経て1688年、名誉革命によって権利の章典を宣言し、さらに1701年の王位継承法によって王権を決定的に制限し、議会の優位を獲得した。それでも政府自体は国王の従者というにすぎず、国王の信任こそ必要とされていたが、初代首相とされるウォルポールが1742年に辞任したことから、議会の信任をなくして政府が存立できないという議院内閣制(責任内閣)がうまれた。
こうして成立したイギリスの「議会主権」をもつ議会とは、君主、貴族院(上院)、庶民院(下院)の三要素によって構成されていたが、19世紀に庶民院(下院)が政治の民主化=選挙法改正(選挙権の拡大)によって着実に権威を高め、国民の意思を民主的に代弁する機関として実質的に主権を担う存在へと成長した。一方の貴族院(上院)は徐々に権限を縮小され、1911年議会法で大幅に制限された。このようにしてイギリスの政府の存在は庶民院の信任に依拠するという今日の議院内閣制ができあがった。<高安健将『同上書』 p.3-9 を要約>
つまり、イギリスの「議会主権」とは、絶対王政の「王権」を奪い取ることで継承した議会(実質は庶民院)が、議院内閣制によって政府を通じて権力を行使することのができる体制であった、といえるだろう。