ウォルポール
18世紀前半のイギリスの責任内閣制最初の首相。ホイッグ党の指導者として1721年に第一大蔵卿となり実質的に内閣を主導。1742年、ホイッグが議会少数派となったため辞任し、責任内閣制を定着させた。
実質的な最初の内閣総理大臣(首相)
国王ジョージ1世はあまり英語も話せず、国政をウォルポールに任せたので、彼は「閣僚の第一人者」という意味の、プライム・ミニスターと呼ばれるようになり、それが内閣総理大臣(首相)を意味するようになる(制度としては1907年から)。ウォルポールは対外戦争をできるだけ抑えて財政の安定を図り、重商主義政策(主として保護関税政策。原材料の輸入関税は低くし、茶などの奢侈品に対しては高く設定した)をとってイギリス産業を保護し、大英帝国への発展を準備した。このころイギリスはスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約(1713年)でイギリスはフランスとスペインからアシエント(黒人奴隷貿易での奴隷供給契約)の権利を譲渡されたことで、大西洋三角貿易を行い、大きな利益を獲得するようになっていた。
しかしウォルポールの長期政権の終わり頃、1740年に起こったオーストリア継承戦争ではオーストリアを支持(直接軍隊は送らなかった)、またアメリカ大陸では対スペインのジェンキンズの耳戦争と、対フランスのジョージ王戦争が重なることと也、財政を圧迫するなど、ウォルポール内閣の支持が低下した。
ウォルポールの登場
名誉革命後、イギリス(イングランド)はフランスとの第2次百年戦争を開始すると、戦争の財政的な保障を得るため議会に依存するようになった。政府は毎年開かれる議会で予算を承認してもらう必要があったからだ。議会の力が強くなると、それまで政治家の個人的な派閥に過ぎなかったホイッグ、トーリがしだいに政党/政党政治としてのまとまりをもつようになり、議会の中でどちらが多数を占めるかが政治の方向を決めるようになった。このように議会の政治的な力が強くなったことで、代々の政権は議会内の多数の支持を確保しつつ国政を運営していかなければならなくなった。(引用)すると、同じ党派からなる大臣たちのチームを率いて議会の審議を乗り切っていくリーダー役の政治家、すなわり首相(prime minister)がどうしても必要になってきます。18世紀に入ると、そうした役割の政治家の存在が徐々にはっきりしてきますが、なかでも21年間にわたって第一大蔵卿(First Lord of the Treasury)兼大蔵大臣(Chancellor of the Exchequer)の職を務めたロバート・ウォルポールはその役割を見事に果たし、以後は彼と同じような役割を果たすべき首相が決められるようになりました。このことから、ウォルポールは初代首相と考えられています。彼は1732年に、義会議場のあったウェストミンスター宮殿からほど近いダウニング街10番地(10 Downing Street)に国王から邸宅を与えられて住むことになるのですが、この邸宅は現在に至るまでイギリスの首相が住む官邸として使用されています。<青木康『議会を歴史する』歴史総合パートナーズ② 2018 清水書院 p.59-60>
責任内閣制
1742年2月、議会(下院)内で反対派(トーリ党)が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任した。これが、議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織し、支持がなくなれば(議会で少数派になれば)辞職するという責任内閣制(議院内閣制)の先例が開かれることになった。こうして、内閣は国王に替わって国政の全般を掌握し、国民の代表である議会に対して責任を持つという責任内閣制が成立したとされる。 → イギリス議会制度参考 この時代のイギリスの政治状況を風刺した文学作品として、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』がある。
南海泡沫事件
ウォルポールが政治の実権を握るきっかけとなったのが、1720年10月、イギリスで起こった南海泡沫事件という株式暴落だった。これは20世紀の1990年代に起こったバブル経済の原点ともいわれている。スペイン継承戦争が起こったとき、イギリス政府は戦費を得るために公債を発行しすぎたため、その利息の支払いに苦しんでいた。そこで「南海会社」という貿易会社を設立し、南米の東南海岸地帯との貿易特権を与え、その株式で公債を買い取ることを計画した。南海会社は人びとの投機心を刺激し、1720年1月の発足時の株価100ポンドが半年で1050ポンドまで値上がりした。それに刺激されて、民間にも次々と投機目的の会社が作られたが、それらは実体のない、泡沫(バブル)会社であった。6月をピークに株価は下がりはじめ、12月には125ポンドに暴落した。つまり、バブルがはじけてしまい、ピーク時に高値で買った一般の投資者は大損し、破産するものが続出した。この顛末を「南海泡沫事件」といい、日本の1986~91年の株価と地価の高騰をバブル経済と言っているのはこの泡沫、つまりバブルからきている。ウォルポールは南海会社設立には反対し、その破綻が明らかになってから再建を託され、奴隷貿易と捕鯨を専業とする会社に縮小して再建に成功した。翌年首相となった彼はその体験を生かし、国内産業と海運の保護にあたり、重商主義的政策をとってイギリス経済を建て直した。