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責任内閣制(議院内閣制)

議会の多数派が内閣を組織し、内閣は(国王ではなく)議会に対して責任を持つという近代政治の制度。イギリスで18世紀に始まり、19世紀には下院の多数となった党(与党)が内閣を組織し、選挙で議会の多数派を失えば辞職するが、反面、首相は議会解散権を持つという関係が確立する。現代ではイギリス、日本などに広く見られるが、異なる政治体制としては、アメリカなどの大統領制がある。

 イギリス議会制度の発達の中で、徐々に形成された議会と政府の関係のあり方で、内閣は議会の多数を占める政党の代表が構成し、国王に対してではなく議会に対して責任を負う、という政党政治の原則を言う。それまでの内閣が国王の補助機関であり、国王に責任を持ち、国王が任免できるものであったのに対し、内閣が議会の多数派によって構成され、議会に対して責任を持ち、選挙によって議会の多数派の支持を失えば辞任することとなった。後には、首相は議会を解散して国民の信を問うことが行われるようになった。このような議会と内閣の関係を責任内閣制、または議院内閣制という。このルールの制度化によって、立法府としての議会と、議会で選出された内閣が行政を行うという権力の分権もはかられることになった。 → イギリス(5)
大統領制との違い このように選挙を通じて国民によって選ばれた議会の中で内閣が選ばれたり辞職したりするようになったので、国王の大臣任免権は形式的なものとなった。また議院内閣制は国民が直接に首相を選ぶのではなく、議会で議員の中から選出される。アメリカなどの大統領制では、国民が直接大統領を選出する点が異なる。議院内閣制はイギリス以外にも他の立憲君主制国家でも採用されるようになった。日本も戦後の日本国憲法で天皇は主権者ではなく象徴となったが、大統領制ではなく、議院内閣制が採用された。

ウォルポール内閣の成立と辞任

 イギリスでこのようなルールができたのは、ハノーヴァー朝の初代ジョージ1世の時のウォルポール内閣からとされている。ウォールポールは1720年末の南海泡沫事件を収束した功績により、1721年に国王によって第一大蔵卿に任命され、以後20年にわたり、内政・外政をとりしきり、その立場は首相(プライム・ミニスター)と呼ばれるようになった。しかし、1740年のオーストリア継承戦争の収束に手間取ったことで批判もつよまり、選挙で与党であるホィッグ党が敗北、議会での多数派の地位を失った。それを受けたウォルポールは、1742年2月に首相を辞任し、内閣も総辞職した。これは国王によって辞任させられたのではなく、議会で少数派になったので辞任した最初のケースであった。このときはジョージ1世がほとんど英語を話せず、閣議を主催することもなかったので、容易に実現したもののであったが、これ以降も前例となって継承され、内閣交代のルールである、責任任内閣制(議院内閣制)の出発点ととなった。 → イギリス(6)

イギリス 責任内閣制の成熟

 この1742年が、責任内閣制(議院内閣制)の始まりの年とされているが、18世紀末にいたるまで、イギリスの内閣の大臣は中世と変わらず、基本的には王の助言者にすぎないとされていた。しかしハノーヴァー朝・ジョージ3世の産業革命・フランス革命の時代を過ぎて、19世紀前半のジョージ4世(在位1820~30年)・ウィリアム4世(在位1830~37)の時期になるとトーリ党主導の自由主義改革が一段と進み、1828年にはカトリック教徒解放法が、1832年には第1回選挙法改正が議会で成立した。
政党の近代化 これらの律法には、国王はそれぞれ反対であったが、議会の決議を受け入れざるを得なかった。第1回選挙法改正で腐敗選挙区が廃止され、選挙権も拡大されて有権者は約50万から約81万に増え、下院が国民の代表として力を持つことになった。トーリ党は1832年の総選挙後に保守党に脱皮し、その後も安定的に政権を維持したが、一方のホイッグ党は保守党内の自由貿易派のピール派および急進派とともに自由党を結成し、選挙では労働組合員が自由党員として当選している。この保守党と自由党が議会で議論を戦わし、選挙で多数を占めた方が内閣を組織するという二大政党制(イギリス)が定着していった。
(引用)この両王(ジョージ3世・ウィリアム4世)の時代、王は意にそわない大臣の助言にも同意するようになり、政治を首相に一任するスタイルが定着していったため、王の権限は縮小していきました。ウィリアム4世は、王として議会の決めた人以外を首相に任命した最後の王となりました。こうしたことが近代的政党政治の発展を促し、王の支持よりも議会で多数を得ること、とくに庶民院(下院)での勝利が重要になりました。1837年以後、王はまったく閣議に出席しなくなり、議院内閣制が一段と成熟していったのです。<池上俊一『王様でたどるイギリス史』2017 岩波ジュニア新書 p.176-177>

現代イギリスの国王大権と責任内閣制

 イギリスの国王は、名誉革命によって政治的実権を失い、たんなる国家(および植民地)の統合の象徴的存在と也「君臨すれども統治せず」といわれるようになった、と理解されている。たしかに、国王が国政に直接携わることはなくなり、内閣は議会に対して責任を持つ体制、いわゆる責任内閣制(議院内閣制ともいう)が成立した。しかし、イギリスでは、イギリスの国王は君主であると共にイギリス国教会の最高位を兼ねる宗教的権力者であることは今も変わりはない。また、マグナ=カルタ権利の章典という歴史的な文書がいまだに憲法の役割をはたしており、国王と政府の関わりをこまかに規定した法律はない。そのため、「慣習」が長く生きており、国王大権による首相以下の大臣任命権は19世紀後半のヴィクトリア朝の時代まで行使されていた。任命権は首相の「助言」によって行われる形式的なものともされていたが、時として国王は助言を無視して自分の意志で任命することもあった。また政治家側も調整に行き詰まると、国王に丸投げして国王の任命権の行使を要請することもあった。
立憲君主としてのエリザベス2世  ヴィクトリア女王は1894年、グラッドストーン首相の退任にあたって助言を求めたり、自由党が望みそうな人物を確認する努力など一切せず、およそ不適切なローズベリ卿を後継者に据えた。
 しかし、20世紀後半、第二次世界大戦後のエリザベス2世は、与えられた助言に基づいて首相を選ぶというかろうじて残っていた権限も、取り上げられている。労働党はすでに党首選出の制度を確立しており、1976年にウィルソンが辞任した時には党首選挙で選出されたキャラハンが後継に指名された。保守党も1965年に党首選出制度を導入し、その年と1975年、そして76年と選挙で党首を選出した。したがって、明らかに過半数を占める政党があるかぎり、もはや首相選出において女王の出る幕はなくなった。国王大権のもう一つに議会の解散があるが、それも首相の助言によって行われることが慣行であり、エリザベス2世は終始一貫して、政治に関与することを最小限に止め、立憲君主としてきわめて適切に行動してきた。<ケネス・ベイカー/森護監修/樋口幸子訳『英国王室スキャンダル史』1997 河出書房新社 p.264-265>

日本の議院内閣制

 日本では明治政府が作成・公布した明治憲法は、ドイツ帝国憲法を手本として天皇主権のもとでの議会制となった。実際の運用ではイギリスの議会制度が模範とされることもあったが、内閣制度を取り入れたものの、議会が首相を選び、内閣は議会に責任をもつという議院内閣制の規定ではなかった。内閣総理大臣首相以下、閣僚は天皇から任命され天皇に責任を負うとされ、理念上は天皇大権の補佐に過ぎなかった。実際には元老が藩閥の駆け引きで選ぶことが多く、政党政治家でないではない官僚や軍人が内閣を組織することが多く、藩閥内閣とか超然内閣と言われた。それでもイギリス流の政党を作る動きも活発になり、憲政会や政友会がうまれ、大正デモクラシーの時期の護憲運動によって1918年に議会で多数を占める政友会かが原敬内閣を組織、政党内閣が生まれた。
 その後も議会の多数派が内閣を組織するのが「憲政の常道」とされたが、それは憲法の規定にはないことなので常態とはならず、政党政治は次第に後退し、とくに1930年代の軍部の台頭後は軍人が内閣を組織するようになり、政党も解散させられていった。日本で議院内閣制が確立したのは戦後の1947年に施行された日本国憲法によって内閣総理大臣は国会で国会議員の中から選出し、国務大臣の過半数は国会議員でなければならない、と定められてからであった。

参考 イギリスの議院内閣制

 2018年に刊行された高安健将『議院内閣制―変貌する英国モデル』中公新書は、ギリスの議院内閣制の歴史と現状を分析し、その改革の方向性を論じている。興味深い指摘がいくつか見られるので、紹介しよう。
 まずイギリスは「議会主権」であるという。「国民主権」ではなく「議会主権」とはどういうこtか。それは次のような歴史的な背景から説明される。イギリスは、17世紀のイギリス革命以来、絶対王政の国王主権を、議会が奪い取って議会主権をかちとっていった。内閣は依然として国王に従属していたが、18世紀に議会の多数党から首相が選ばれ、国王がそれを認めるようになり、内閣は議院に責任を持つ議院内閣制が生まれた。さらに19世紀に議会の下院(庶民院)の畝許憲が拡大され、下院が国民の民主的な代表であるという権威を獲得し、上院(貴族院)の権利は著しく制限されたことになった。イギリスの国家構造のありかたでは依然として議会主権であり国民主権ではないが、下院議員が国民によって選出されることで、事実上の国民主権が実現されている。
二大政党制と議院内閣制の組合せというイギリス・モデル 議会主権のもとで生まれたイギリスの議院内閣制は、政府と議会(実際には下院=庶民院)という政治エリートに対する信頼、実質的に機能する二大政党制(イギリス)、効果的な政策といった前提が成り立ってこそ維持されてきた。議院内閣制とは政府と議会のエリートが融合した権力とといえる。その議会は、ながく二大政党のいずれかが多数派を構成することが続いてきた。権力をコントロールする役割は、二大政党のいずれかが野党として政権党を批判し、選挙によって政権が交代することで果たしてきた。
 しかしイギリスにおける二大政党制と議院内閣制の組合せは、多数代表制の集権的な政治システムを生み出し、一定の条件を前提として、強力で安定した政府を作り出す傾向にあったが、このシステムは政府のコントロールと政治に対する社会からの利益集約という観点からすれば不完全な仕組みであった。一定の条件とは国民からの信頼と、良好な政策的帰結がることであった。この条件がない場合、イギリス型のシステムをモデルとすべきではない。<p.191>
 ところが、20世紀末頃からイギリスの二大政党制への支持が社会の中で空洞化し、政治への信頼も損なわれ、政府による政策的失策も続き、議院内閣制のもっていた正当性が揺らいできた。そのような状況の中で、どのように権力の監視ととコントロールを実現するか、が重要な課題になっている。
イギリスの国家構造改革 議会は多数党が内閣をつくるための選挙の場としてしか機能しなくなり、選挙で勝った党派が強大な力を持ち(選挙独裁ともいわれた)、野党はそrをチェックする力をもたず、政策提案なども行われずに議会での議論が低調となった。二大政党制が空洞化し、政治エリートへの信頼が低下し、政策のパフォーマンスの低さも指摘されるようになると、強すぎる政府をコントロールすることは一層喫緊の課題とならざるを得なくなった。<p.201>  イギリスの議院内閣制の変化を促すためにブレア政権のもとで、つぎのような国家構造改革が試みられた。
  1. 議会改革 議会の監視機能を高めるために両院に特別委員会の設置し、議院内閣制をチェックする働きをもたせた。さらに貴族院に対しては世襲議員の廃止を提案、それは1999年に実行された。貴族院議員は選挙で選ばれるのではないとはいえ、首相や各党党首の推薦によって選ばれることによって民主的正当性をもつようになり、同時に党派性を反映するようになった。しかし、直接公選はまだ実現していない。<p.208-217>
  2. 権限委譲改革 ブレア政権のもとで、スコットランドとウェールズは1997年9月に、北アイルランドはベルファスト合意の翌月の1998年5月にそれぞれレファレンダム(住民投票)を実施し、権限委譲が決まった。その結果、スコットランド議会、ウェールズ議会、北アイルランド議会に一定の範囲で法律を制定できる立法権が委譲された。いずれも制度上は、中央の議会(現在ではウェストミンスター議会といわれる)の制定法に基づいているのでイギリスの枠組みの中にある。しかし一定範囲でウェストミンスター議会は権限移譲先の議会に事実上拘束されることととなった。<p.218>
  3. 法典化改革 もともとイギリスの政府には、執務上のルールや慣習は公開されず、秘密主義的に柔軟に運用されていたが、1990年代から不分明さが非難されるようになり、『内閣執務提要』などさまざまなルールが整理され公開されるようになった。<p.221>
  4. 司法改革 ブレア内閣はそれまで貴族院議長が兼ねることになっていた司法トップの大法官(最高裁判所裁判長に当たる)を廃止し、独立した最高裁判所を設置するという改革を打ち出した。これによってはじめて内閣と裁判書は分離し、議院内閣制を外部から拘束する司法の存在が明らかになった。<p.225-238>
マディソン主義への転換  著者は、イギリス議院内閣制は、権力の融合を特徴としており、それは権力の担い手に対する信頼を前提として初めて成立するシステムであるとして、それに対してこれからあるべき議院内閣制は、政治的平等から導き出される多数支配と、地位や権力、富をもつ少数派の自由の保障という、対立する目的の妥協をめざす努力としてマディソン主義的デモクラシーを提唱する。
 マディソンとは第4代アメリカ合衆国大統領で『ザ・フェデラリスト』の著者の一人でもある政治思想家でもあった人物であり、、その中心的目標は、多数派であれ、少数派であれ、特定の政治勢力に権力を集中させないことであった。抑制されない権力は、不可避的に暴走する。マディソン主義は権力に対する強烈な不信感に根ざしている。アメリカの政治学者ロバート・ダールは『民主主義理論序説』(1956)で、彼独自の「ポリアーキー」という概念を引き出すためにマディソン主義を多数支配的デモクラシーと対比させてマディソン主義を提起した。一連のイギリスの国家構造改革は、政治不信を前提に、一般の法律とは異なる上位の法をもち、権力を分散させ、透明性と手続きの明確化を施行する改革であり、こうした国家構造改革をマディソン主義的ということができる。<p.248-249>
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高安 健将
『議院内閣制―変貌する英国モデル』
2018 中公新書

池上俊一
『王様でたどるイギリス史』
2017 岩波ジュニア新書

ケネス・ベイカー
森護監修/樋口幸子訳
『英国王室スキャンダル史』
1997 河出書房新社

ヘンリー8世からダイアナ妃まで、なぜイギリス王室にはスキャンダルが多いのか。王室と政府、社会の関係を戯画を題材として探った真面目な本。