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政党/政党政治

政党は、一定の綱領・政策で結束し、国民の支持を受けて議会で多数を占めて政権を運用することを目指す集団。議会政治の発展とともに生まれた政党が、議会の多数をしめて内閣を組織する政治のあり方を政党政治という。

 17世紀末のイギリスに始まり、近代議会政治での原則となっている。イギリス議会制度では二大政党が交互に政権を担当してきて、議会政治の理想とされてきたが、フランスのように多数の政党が競合し、時に応じて連立政権をつくることも多い。また社会主義圏での政党は革命政党としての性格が強く、一党独裁体制を採ることが多かったが、ソ連崩壊後は多くの国が複数政党制容認に変化している。

政党のはじまり

 チャールズ2世には嫡子が無く、憲法上の王位相続人の王弟ジェームズはカトリック教徒であった。ジェームズの王位継承を認めない一派は新教徒の庶子モンマス公を相続者とするため、1679年、王位継承排斥法案を提出した。それに対してジェームズの相続権を認める一派は、合法的な相続者としたうえで、ジェームズの死後、新教徒であるメアリおよびアン(いずれもジェームズの娘)を王位継承者としようとした。前者はシャフツベリを首領とする民権派で地方党、相手からはホィッグ(スコットランドの謀反人の意味)とよばれ、後者がダンビーを首領する騎士派で宮廷党、相手からはトーリ(アイルランドの無法者の意味)と呼ばれた。結局、即位は認められてジェームズ2世となった。この二つは、その後も議会内での対立するグループとして党派を形成するようになり、それぞれ後の自由党・保守党の源流となる。ただ、この段階では、後の近代的な政党とは異なり、綱領や、明確な党首と組織などは無く、ゆるやかな党派にすぎなかった。 → イギリス(5)

政党政治のはじまり

 両党はジェームズ2世の王位継承問題では激しく争ったが、ジェームズ2世が専制的なカトリック復帰を策し、議会を無視するようになると、協力して国王を排除し、オランダ総督ウィレム3世とその妻メアリの招聘をはかり、1688年名誉革命を実現した。その後のイギリス国王は権利章典などで議会の決定に制約されるようになり、議会での政党の自由な議論が保障されるようになった。
 はじめ内閣は国王を補佐する各役所の長官の会議としてはじまり、国王が主催し、閣僚も国王が選んでいた。ウィリアム3世治下ではトーリ・ホイッグ両党派から選ばれ連立内閣の形が続いていたが、1694年からは王政に批判的なトーリ党からは閣僚を選ばれず、ホイッグ党員だけで内閣を作るようになった。これによって同一党派から閣僚を選ぶという政党政治への道が開かれた。

責任内閣制

 次いでハノーヴァー朝のジョージ1世は英語が話せなかったこともあって、内閣の会議に出席せず、閣議をまかせるようになった。1721年、ホイッグ党のウォルポール内閣の時に、彼が内閣の第一人者という意味で内閣総理大臣(首相、プライム=ミニスター)と言われるようになった。彼は20年にわたって首相を務めた後、1742年に下院でウォルポールに反対する議員が多数になると、議会に対して責任を負えないと言うことで辞任した。これが議会の多数を占める党派が内閣を構成するという原則のはじまりであり、内閣は国王に対してではなく議会に責任を持つという責任内閣制が始まった。

二大政党制の展開

 その後、イギリスでは二大政党がそれぞれ国民に政策を訴えて選挙で議席を競い、下院で多数派となった政党が内閣を組織し、国王に対してではなく議会に対して責任を持つという議院内閣制が定着した。このような政党政治の原則はイギリスで典型的に展開され、そのイギリスが19世紀に大発展したところから、政党政治は議会政治の中で多数決によって国民合意を形成していくうえで有効であると認識されるようになり、各国にも作られていった。イギリスではやがてトーリ党が保守党、ホイッグ党が自由党と言われて本格的な二大政党制となり、20世紀には労働者層の増大にともなって労働党が結成され、現在は保守党と労働党の二大政党制となっている。ところが21世紀に入って保守党・労働党の二大政党政治が行き詰まり、1989年に自由党と労働党右派が結成した自由民主党が第三極として台頭した。2010年5月には労働党ブラウン内閣に代わり、保守党と自由民主党連立のキャメロン内閣が成立した。二大政党制というしくみも世界的に行き詰まっているという傾向にある。

アメリカの政党政治

 アメリカ合衆国では建国当初の連邦派、反連邦派の対立から発して、奴隷制や州の自治権、自由貿易か保護貿易課などを対立軸にして民主党共和党の二大政党が形成された。大統領はほぼ二大政党から交互に選出されるようになり、ジャクソン大統領の時から大統領選挙で勝った党派の者に連邦政府の官職をあたえるスポイルズ=システム(猟官制度)が行われるようになった。 → アメリカの政党政治

日本の政党政治

 日本の政党も明治時代の自由民権運動から始まり、大正デモクラシーの時代から政党政治が通常化し、憲政党と政友会という保守二大政党の時期がしばらく続いた。しかし、制限選挙のもとで国民の総意を結集するすべはなく、むしろ昭和の経済不況の中で政党と財閥の癒着などから政党政治への不信が強くなった。国家主義・軍国主義の高まる中、治安維持法が1925年に制定されるなどで政党政治は充分機能せず、また政党自身の腐敗もあって政党政治家はテロの対象となって殺害されるなど苦難の歴史が続いた。戦後の民主化の中で政党政治が復活したが、いわゆる55年体制で自由民主党の長期政権が続いた。このような現象は他国の政党政治では珍しいとされている。それが自民党政治の腐敗(田中政権の金権政治など)をもたらしたとして、90年代から欧米なみの二大政党を実現させる動きが出てきた。2009年夏の民主党政権の成立は日本でも二大政党制が定着するかどうか、重要な試金石として注目されたが、沖縄辺野古への基地移転問題、消費税問題で迷走し、さらに東日本大震災が起こってわずか約3年で退陣した。その後、自民党は公明党と連立を組むことによって、2012年12月の第2次安倍内閣を成立させ、その後安倍政権の一強体制と言われた長期政権が2020年まで約8年続いた。この間、民主党は分裂、低迷し、2020年に立憲民主党として再建された。

少数政党の分立

 一方、フランスやイタリアでは二大政党は発展せず、政党は主として保守系と革新系で二分されるが、常に離合集散を繰り返し、その結果、内閣も頻繁に交替するという傾向がある。長期的に安定多数を占める政党がないので、常に連合政権という形で運用される。また、ほとんどの政党が与党となって大連立を組むことも多い。二大政党か、連立政権か、という政党政治のあり方は現在の各国で問われている政治課題だと言える。

政党政治の危機

 政党政治は議会制民主主義にとってほとんど唯一の政治的手段と考えられているが、それは歴史的な経験の積み重ねから言えることである。そして政党政治は、政党間の争いや利権、腐敗という弱点をもっていた。そのようなときに政党政治を否定する動きが出てくる。ファシズムや軍部独裁の出現である。政党自身がファシズムや軍に協力し、大政翼賛体制をとったことも、戦前の日本のように存在した。植民地支配から脱して独立を勝ち取ったアフリカやアジア、ラテンアメリカの新興国でも政党政治は常に危機にさらされている。

プロレタリア一党独裁の思想

 社会主義が勃興すると、社会主義政党も多数結成されたが、その中のロシアのボリシェヴィキを指導したレーニンは、ブルジョワ体制のもとでの議会政治と政党政治を否定し、労働者(プロレタリア)を主体とした革命を前進させるためには共産党一党独裁が必要であると主張して他の政党を禁止した。
 このようにレーニン主義(ボリシェヴィズム)での政党は、同じ政党という名称でも、いわゆるブルジョワ政党と全く異なっている。ブルジョワ政党のように国民の支持を受けて選挙によって議会で多数を占めて政権を運用するという政党政治ではなく、プロレタリア権力を樹立するための指導部としての革命政党というのがその本質とされる。従って、プロレタリア階級に敵対する勢力は排除しなければならず、初めから複数政党制はあり得なかった。

一党独裁から複数政党制への流れ

 東欧の社会主義圏もそれに倣って社会主義政党が次々に生まれ、ソ連共産党を指導部とするコミンテルンを結成し、ソ連圏の結束を維持していたが、第二次世界大戦後の米ソ冷戦下で社会主義の経済・政治システムの硬直化が進み、1970年代以降の自由化運動がおこることとなった。1989年の東欧革命が勃発、東欧各国で複数政党を認めざるをえなくなった。結局本家のソ連も解体し、ほぼソ連を継承したロシアでは複数政党へと転換した。現在も共産党一党独裁を維持し、政党政治を否定しているのは中国と北朝鮮・キューバ・ベトナムなどごく少数となっている。
 中国は毛沢東の指導する中国共産党が日本の侵略と国民党との内戦に勝利して中華人民共和国を建設すると(当初は複数政党が認められていたが)、共産党一党独裁体制を敷いた。その後、文化大革命の混乱を経て鄧小平の主導した改革開放政策で社会主義市場経済を導入して経済面では自由主義市場経済に移行し、今や世界の経済大国となっているが、政治的には依然として共産党一党独裁体制を守っており、政党結成の自由などを要求する民主化運動は天安門事件(第2次)のごとく厳しく弾圧されている。この経済体制と政治体制の矛盾が今後どのようになっていくのか、注目されるところである。一国二制度をとる香港で2014年から始まった雨傘運動と言われる民衆運動は、本国のような一党独裁への不安が根底にあり、今後も目を離せない動きとなるであろう。
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