政党/政党政治
政党は、一定の綱領・政策で結束し、国民の支持を受けて議会で多数を占めて政権を運用することを目指す集団。議会政治の発展とともに生まれた政党が、議会の多数をしめて内閣を組織する政治のあり方を政党政治という。17世紀末のイギリスに始まり、現在ではほとんどの国で政党による政治が行われている。
17世紀末のイギリスに始まり、近代議会政治での原則となっている。イギリス議会制度では二大政党が交互に政権を担当してきて、議会政治の理想とされてきたが、フランスのように多数の政党が競合し、時に応じて連立政権をつくることも多い。また社会主義圏での政党は革命政党としての性格が強く、一党独裁体制を採ることが多かったが、ソ連崩壊後は多くの国が複数政党制容認に変化している。
はじめ内閣は国王を補佐する各役所の長官の会議としてはじまり、国王が主催し、閣僚も国王が選んでいた。ウィリアム3世治下ではトーリ・ホイッグ両党派から選ばれ連立内閣の形が続いていたが、1694年からは王政に批判的なトーリ党からは閣僚を選ばれず、ホイッグ党員だけで内閣を作るようになった。これによって同一党派から閣僚を選ぶという政党政治への道が開かれた。
20世紀には労働者層の増大にともなって労働党が結成され、自由党の主張も取り入れていく中で、自由党に代わって急成長し、1920年代からは政権にも加わるようになり、第二次世界大戦後は保守党と労働党の二大政党制に変質した。労働党政権は社会福祉を重視した政策を推進したが、経済成長の停滞を招いたとの批判が強まり、1980年代には保守党のサッチャーが新自由主義を掲げて改革を推進、その行き過ぎが問題視されるようになって1997年に労働党ブレア内閣が生まれた。
2015年のイギリス総選挙では、保守党・労働党に加えて、自由民主党、英国独立党、緑の党、スコットランド国民党、プライド・カムリの七党が立候補者を立て、七党党首が並んで新聞第一面に掲載された。この中でまず第三極となったのが自由民主党であったが、このときの選挙では前回(2010年)の57から8議席へと壊滅的な敗北となった。それは中道左派を標榜していた自由民主党が保守党と連立したことで増税路線に転換したためとされている。理想的な政策を立てて国民の支持を受けながら政権につくと現実路線に転換したことで支持を一気に失ったのだった。
この2015年総選挙で躍進したのが英国独立党(UKIP)だった。英国独立党は1993年にマーストリヒト条約に反対する人びとによって創設され、EU離脱、非熟練労働者の入国を5年間停止、移民受け入れと待遇の制限などを訴え、同性婚反対などジェンダー問題でも保守的な主張をもっていた。2006年にマイケル=ファラージが党首となり、その個性的なわかりやすいメッセージが有権者に受け入れられ、保守党の右派に食い込み、労働党や自由民主党的な中道左派路線に批判的な層の受け皿となって急成長した。彼らは外国人排斥を主張する極右政党とは一線を画しながら選挙で第三極に立つことに成功した。2016年にキャメロン保守党内閣がEU離脱を問う国民投票(レファレンダム)に踏み切ると、英国独立党は離脱によってイギリスが主権を取り戻す、という主張を声高に唱え、離脱を賛成多数で勝ち取った。しかし結党の目的であるブレグジット(EU離脱)が達成されてしまったことで求心力が失われ、ファラージ党首も辞任し、急速に力を落としている。
ブリグジットを問う国民投票の際、スコットランド国民党(SNP)は残留を主張した。スコットランドでは62%が残留を希望したが、英国全体では51.9%が離脱に賛成したため、離脱が決まった。スコットランド国民党はそのため独立の気運がかえって高まり、EUとの関係強化、社会民主主義的な分配を主張し、核武装にも異なる立場をとって保守党とは全面的な違いを見せている。またその成長はかつてスコットランドを地盤としていた労働党にとっても脅威となっている。分離独立を問うスコットランド住民投票は2014年の住民投票では否決されているが、ブレグジット後のスコットランド国民党の躍進は今後も目を離せない状況となっている。 <高安健将『議院内閣制―変貌する英国モデル』2018 中公新書 p.151-160>
野党に手厚いイギリスの政党助成金 野党に対する助成は上院と下院で異なっており、下院(庶民院)では1975年に労働党政権の時に始まった「ショート資金」、上院(貴族院)では1996年に保守党政権のもとで始まったクランボーン資金である。ショートとはその時に政党助成制度導入を主導した下院院院内総務、クランボーンは同じく上院院内総務総のそrぞれの名に由来している。政党助成金が政権党には支出されず、野党に支給される理由は次のように説明されている。
日本の政党助成金は? イギリスの政党助成金が野党を主な対象にしているのは興味深いが、それは健全な政党政治には政権党に対して野党が対等な力を持っていなければならないという、イギリスの長い政党政治の経験の中から生み出された知恵なのかもしれない。日本の場合は、1994年に小選挙区比例代表制導入という選挙制度の変更にともなって導入されたもので、企業・団体などから政党・政治団体への政治献金を制限するかわりに政党交付金として支給されることになった。助成額は基本的には、国民一人あたり250円にあたる金額を各政党の所属議員・選挙での得票率に応じて配分される。つまり、与党・野党は関係なく、議員数・得票数の多い政党に有利に配分される。なお政党の要件は国会議員5名以上、得票率2%以上とされている。
日本の政党助成金は? 日本の場合の政党助成金は、1988年に発覚した大規模な汚職事件であるリクルート事件で政治不信が高まったことへの対応策として1990年代に高まった政治改革論議の高まりの中でつくられたもので、企業・団体からの政治家個人への献金を禁止することとセットになっていた。しかし政党への寄付は禁止されていないために現在も「政治とカネ」の問題が政界を揺るがしている。2024年10月の総選挙で自公連立政権が大敗したのもそのためであったが、日本の政党政治の歴史的未熟さ、とも言える。イタリアでは国民投票で政党助成金を廃止した<Wikipedia情報>そうだが、政党政治の健全が運用という観点から政党助成金そのものを否定するのではなく、企業・団体の献金禁止の徹底を条件に、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。<2024/11/10記>
このようにレーニン主義(ボリシェヴィズム)での政党は、同じ政党という名称でも、いわゆるブルジョワ政党と全く異なっている。ブルジョワ政党のように国民の支持を受けて選挙によって議会で多数を占めて政権を運用するという政党政治ではなく、プロレタリア権力を樹立するための指導部としての革命政党というのがその本質とされる。従って、プロレタリア階級に敵対する勢力は排除しなければならず、初めから複数政党制はあり得なかった。
中国は毛沢東の指導する中国共産党が日本の侵略と国民党との内戦に勝利して中華人民共和国を建設すると(当初は複数政党が認められていたが)、共産党一党独裁体制を敷いた。その後、文化大革命の混乱を経て鄧小平の主導した改革開放政策で社会主義市場経済を導入して経済面では自由主義市場経済に移行し、今や世界の経済大国となっているが、政治的には依然として共産党一党独裁体制を守っており、政党結成の自由などを要求する民主化運動は天安門事件(第2次)のごとく厳しく弾圧されている。この経済体制と政治体制の矛盾が今後どのようになっていくのか、注目されるところである。一国二制度をとる香港で2014年から始まった雨傘運動と言われる民衆運動は、本国のような一党独裁への不安が根底にあり、今後も目を離せない動きとなるであろう。
戦後の民主化の中で政党政治が復活したが、いわゆる55年体制で自由民主党の長期政権が続き、社会党も長く野党のまま止まり、このような現象は他国の政党政治では珍しいとされている。それが自民党政治の腐敗(田中政権の金権政治など)をもたらしたとして、90年代から欧米なみの二大政党による政権交代を実現させる動きが出てきた。2009年夏の民主党政権の成立は日本でも二大政党制が定着するかどうか、重要な試金石として注目されたが、沖縄辺野古への基地移転問題、消費税問題で迷走し、さらに東日本大震災が起こってわずか約3年で退陣したため実現しなかった。
その後、自民党は公明党と連立を組むことによって、2012年12月の第2次安倍内閣を成立させ、安倍政権の一強体制と言われる長期政権が2020年まで約8年続いた。この間、民主党は分裂、低迷し、2020年に立憲民主党として再建された。安倍政権末期からコロナ禍に対応する上での混乱が始まり、後継政権の菅内閣、岸田内閣も安定しないまま、2022年7月、安倍元首相の銃撃事件から、統一教会問題が浮上し、さらに2024年に自民党安倍派議員の裏金問題が起こったことで大きな変化が起こった。
2024年10月総選挙 2024年10月の選挙で自民党が単独過半数割れに落ちこみ、政権与党の公明党も大きく議席を減らした。立憲民主党は躍進したが、国民民主党が第三党として浮上しキャスティング・ボートを握る形になった。日本の政党政治も議会内で過半数を占める政党のいない常態、いわゆるハンg・パーラメントという常態となったが、このような状況はイギリス議院内閣制においてもみられ、政党政治では避けて通れないことなので、日本もこの状況をどう克服して政治の安定を実現することができるのか、注意深くみていく必要がある。<2022/11/10記>
イギリス 政党のはじまり
チャールズ2世には嫡子が無く、王位相続人の王弟ジェームズはカトリック教徒であった。ジェームズの王位継承を認めない一派は新教徒の庶子モンマス公を相続者とするため、1679年、王位継承排斥法案を提出した。それに対してジェームズの相続権を認める一派は、合法的な相続者としたうえで、ジェームズの死後、新教徒であるメアリおよびアン(いずれもジェームズの娘)を王位継承者としようとした。前者はシャフツベリを首領とする民権派で地方党であり、相手からはホィッグ(スコットランドの謀反人の意味)とよばれ、後者がダンビーを首領する騎士派で宮廷党であり、相手からはトーリ(アイルランドの無法者の意味)と呼ばれた。結局、1685年2月に即位は認められてジェームズ2世となった。この二つの勢力は、その後も議会内での対立するグループとして党派を形成するようになり、それぞれ後の自由党・保守党の源流となる。ただ、この段階では、後の近代的な政党とは異なり、綱領や、明確な党首と組織などは無く、ゆるやかな党派にすぎなかった。 → イギリス(5)政党政治のはじまり
両党はジェームズ2世の王位継承問題では激しく争ったが、ジェームズ2世が専制的なカトリック復帰を策し、議会を無視するようになると、協力して国王を排除し、オランダ総督ウィレム3世とその妻メアリの招聘をはかり、1688年に名誉革命を実現した。ウィレムはイギリス国王ウィリアム3世として妻メアリと共同統治し、その後のイギリス国王は権利章典などで議会の決定に制約されるようになり、議会での政党の自由な議論が保障されるようになった。はじめ内閣は国王を補佐する各役所の長官の会議としてはじまり、国王が主催し、閣僚も国王が選んでいた。ウィリアム3世治下ではトーリ・ホイッグ両党派から選ばれ連立内閣の形が続いていたが、1694年からは王政に批判的なトーリ党からは閣僚を選ばれず、ホイッグ党員だけで内閣を作るようになった。これによって同一党派から閣僚を選ぶという政党政治への道が開かれた。
責任内閣制
次いでハノーヴァー朝のジョージ1世は英語が話せなかったこともあって、内閣の会議に出席せず、閣議をまかせるようになった。1721年、ホイッグ党のウォルポール内閣の時に、彼が内閣の第一人者という意味で内閣総理大臣(首相、プライム=ミニスター)と言われるようになった。彼は20年にわたって首相を務めた後、1742年に下院でウォルポールに反対する議員が多数になると、議会に対して責任を負えないと言うことで辞任した。これが議会の多数を占める党派が内閣を構成するという原則のはじまりであり、内閣は国王に対してではなく議会に責任を持つという責任内閣制(議院内閣制)が始まった。二大政党制の展開
その後、イギリスでは二大政党がそれぞれ国民に政策を訴えて選挙で議席を競い、下院で多数派となった政党が内閣を組織し、国王に対してではなく議会に対して責任を持つという議院内閣制が定着した。このような政党政治の原則はイギリスで典型的に展開され、そのイギリスが19世紀に大発展したところから、政党政治は議会政治の中で多数決によって国民合意を形成していくうえで有効であると認識されるようになり、各国にも作られていった。イギリスではやがて1830年代にトーリ党が保守党、ホイッグ党が自由党と言われて本格的な二大政党制となり、19世紀前半まで続いた。その間、イギリスの選挙法改正が進み、国民の多くの声を政治に生かすために議会政治の中で政党の果たす役割は格段に重いものになっていった。20世紀には労働者層の増大にともなって労働党が結成され、自由党の主張も取り入れていく中で、自由党に代わって急成長し、1920年代からは政権にも加わるようになり、第二次世界大戦後は保守党と労働党の二大政党制に変質した。労働党政権は社会福祉を重視した政策を推進したが、経済成長の停滞を招いたとの批判が強まり、1980年代には保守党のサッチャーが新自由主義を掲げて改革を推進、その行き過ぎが問題視されるようになって1997年に労働党ブレア内閣が生まれた。
イギリス二大政党制の動揺
ところが21世紀に入って保守党・労働党の二大政党政治が行き詰まりを見せる中、1989年に自由党と労働党右派が結成した自由民主党が第三極として台頭した。2010年5月には労働党ブラウン内閣に代わり、保守党と自由民主党連立のキャメロン内閣が成立した。そしてブレグジット(EU離脱)を主張する勢力が急成長し、イギリスの伝統的二大政党政治も大きな危機を迎えることとなった。2015年のイギリス総選挙では、保守党・労働党に加えて、自由民主党、英国独立党、緑の党、スコットランド国民党、プライド・カムリの七党が立候補者を立て、七党党首が並んで新聞第一面に掲載された。この中でまず第三極となったのが自由民主党であったが、このときの選挙では前回(2010年)の57から8議席へと壊滅的な敗北となった。それは中道左派を標榜していた自由民主党が保守党と連立したことで増税路線に転換したためとされている。理想的な政策を立てて国民の支持を受けながら政権につくと現実路線に転換したことで支持を一気に失ったのだった。
この2015年総選挙で躍進したのが英国独立党(UKIP)だった。英国独立党は1993年にマーストリヒト条約に反対する人びとによって創設され、EU離脱、非熟練労働者の入国を5年間停止、移民受け入れと待遇の制限などを訴え、同性婚反対などジェンダー問題でも保守的な主張をもっていた。2006年にマイケル=ファラージが党首となり、その個性的なわかりやすいメッセージが有権者に受け入れられ、保守党の右派に食い込み、労働党や自由民主党的な中道左派路線に批判的な層の受け皿となって急成長した。彼らは外国人排斥を主張する極右政党とは一線を画しながら選挙で第三極に立つことに成功した。2016年にキャメロン保守党内閣がEU離脱を問う国民投票(レファレンダム)に踏み切ると、英国独立党は離脱によってイギリスが主権を取り戻す、という主張を声高に唱え、離脱を賛成多数で勝ち取った。しかし結党の目的であるブレグジット(EU離脱)が達成されてしまったことで求心力が失われ、ファラージ党首も辞任し、急速に力を落としている。
ブリグジットを問う国民投票の際、スコットランド国民党(SNP)は残留を主張した。スコットランドでは62%が残留を希望したが、英国全体では51.9%が離脱に賛成したため、離脱が決まった。スコットランド国民党はそのため独立の気運がかえって高まり、EUとの関係強化、社会民主主義的な分配を主張し、核武装にも異なる立場をとって保守党とは全面的な違いを見せている。またその成長はかつてスコットランドを地盤としていた労働党にとっても脅威となっている。分離独立を問うスコットランド住民投票は2014年の住民投票では否決されているが、ブレグジット後のスコットランド国民党の躍進は今後も目を離せない状況となっている。 <高安健将『議院内閣制―変貌する英国モデル』2018 中公新書 p.151-160>
政党助成金
現在、日本の含めいくつかの議会政をとる国では、政党の存在は公的なものであり、それに対して国庫から政党助成金(政党交付金)が支出されている。この政党に対する公的助成金はイギリスでも行われているが、日本や他の国とは異なる特色がある。イギリスの政党助成金は二本立てであり、その一つが野党に対する助成でり、もう一つが政策開発を名目とするじょせいがあることである。野党に手厚いイギリスの政党助成金 野党に対する助成は上院と下院で異なっており、下院(庶民院)では1975年に労働党政権の時に始まった「ショート資金」、上院(貴族院)では1996年に保守党政権のもとで始まったクランボーン資金である。ショートとはその時に政党助成制度導入を主導した下院院院内総務、クランボーンは同じく上院院内総務総のそrぞれの名に由来している。政党助成金が政権党には支出されず、野党に支給される理由は次のように説明されている。
(引用)政権党は、特別顧問を公的費用で雇用するなど、さまざまな便益を得ている。適切な政党間競争のためには、野党に対する財政的支援が必要であるという思想が、英国における政党への公的助成制度を支えている。<高安健将『前掲書』p.178>もう一つの公的助成金は、2000年の「政党・選挙・レファレンダム法」で定められた政策開発を名目とする助成である。それらを合わせた政党助成金の実際は、2014年(キャメロン保守党内核時代)には野党の労働党が658万ポンド(全収入の16.7%)に対して政権党の保守党は49万ポンド(全収入の1.3)であった。また、献金は労働党が1082万ポンド(27.3%)、保守党が2848万ポンド(76%)であった。<高安健将『前掲書』p.177>
日本の政党助成金は? イギリスの政党助成金が野党を主な対象にしているのは興味深いが、それは健全な政党政治には政権党に対して野党が対等な力を持っていなければならないという、イギリスの長い政党政治の経験の中から生み出された知恵なのかもしれない。日本の場合は、1994年に小選挙区比例代表制導入という選挙制度の変更にともなって導入されたもので、企業・団体などから政党・政治団体への政治献金を制限するかわりに政党交付金として支給されることになった。助成額は基本的には、国民一人あたり250円にあたる金額を各政党の所属議員・選挙での得票率に応じて配分される。つまり、与党・野党は関係なく、議員数・得票数の多い政党に有利に配分される。なお政党の要件は国会議員5名以上、得票率2%以上とされている。
日本の政党助成金は? 日本の場合の政党助成金は、1988年に発覚した大規模な汚職事件であるリクルート事件で政治不信が高まったことへの対応策として1990年代に高まった政治改革論議の高まりの中でつくられたもので、企業・団体からの政治家個人への献金を禁止することとセットになっていた。しかし政党への寄付は禁止されていないために現在も「政治とカネ」の問題が政界を揺るがしている。2024年10月の総選挙で自公連立政権が大敗したのもそのためであったが、日本の政党政治の歴史的未熟さ、とも言える。イタリアでは国民投票で政党助成金を廃止した<Wikipedia情報>そうだが、政党政治の健全が運用という観点から政党助成金そのものを否定するのではなく、企業・団体の献金禁止の徹底を条件に、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。<2024/11/10記>
アメリカの政党政治
アメリカ合衆国では建国当初の連邦派、反連邦派の対立から発して、奴隷制や州の自治権、自由貿易か保護貿易課などを対立軸にして民主党と共和党の二大政党が形成された。大統領はほぼ二大政党から交互に選出されるようになり、ジャクソン大統領の時から大統領選挙で勝った党派の者に連邦政府の官職をあたえるスポイルズ=システム(猟官制度)が行われるようになった。 → アメリカの政党政治少数政党の分立
フランスやイタリアではイギリスのような二大政党は発展せず、政党は主として保守系と革新系で二分されるが、常に離合集散を繰り返し、その結果、内閣も頻繁に交替するという傾向がある。長期的に安定多数を占める政党がないので、常に連合政権という形で運用される。また、ほとんどの政党が与党となって大連立を組むことも多い。二大政党か、連立政権か、という政党政治のあり方は現在の各国で問われている政治課題だと言える。政党政治の危機
政党政治は議会制民主主義にとってほとんど唯一の政治的手段と考えられているが、それは歴史的な経験の積み重ねから言えることである。そして政党政治は、政党間の争いや利権、腐敗という弱点をもっていた。そのようなときに政党政治を否定する動きが出てくる。ファシズムや軍部独裁の出現である。政党自身がファシズムや軍に協力し、大政翼賛体制をとったことも、戦前の日本のように存在した。植民地支配から脱して独立を勝ち取ったアフリカやアジア、ラテンアメリカの新興国でも政党政治は常に危機にさらされている。プロレタリア一党独裁の思想
社会主義が勃興すると、社会主義政党も多数結成されたが、その中のロシアのボリシェヴィキを指導したレーニンは、ブルジョワ体制のもとでの議会政治と政党政治を否定し、労働者(プロレタリア)を主体とした革命を前進させるためには共産党一党独裁が必要であると主張して他の政党を禁止した。このようにレーニン主義(ボリシェヴィズム)での政党は、同じ政党という名称でも、いわゆるブルジョワ政党と全く異なっている。ブルジョワ政党のように国民の支持を受けて選挙によって議会で多数を占めて政権を運用するという政党政治ではなく、プロレタリア権力を樹立するための指導部としての革命政党というのがその本質とされる。従って、プロレタリア階級に敵対する勢力は排除しなければならず、初めから複数政党制はあり得なかった。
一党独裁から複数政党制への流れ
東欧の社会主義圏もそれに倣って社会主義政党が次々に生まれ、ソ連共産党を指導部とするコミンテルンを結成し、ソ連圏の結束を維持していたが、第二次世界大戦後の米ソ冷戦下で社会主義の経済・政治システムの硬直化が進み、1970年代以降の自由化運動がおこることとなった。1989年の東欧革命が勃発、東欧各国で複数政党を認めざるをえなくなった。結局本家のソ連も解体し、ほぼソ連を継承したロシアでは複数政党へと転換した。現在も共産党一党独裁を維持し、政党政治を否定しているのは中国と北朝鮮・キューバ・ベトナムなどごく少数となっている。中国は毛沢東の指導する中国共産党が日本の侵略と国民党との内戦に勝利して中華人民共和国を建設すると(当初は複数政党が認められていたが)、共産党一党独裁体制を敷いた。その後、文化大革命の混乱を経て鄧小平の主導した改革開放政策で社会主義市場経済を導入して経済面では自由主義市場経済に移行し、今や世界の経済大国となっているが、政治的には依然として共産党一党独裁体制を守っており、政党結成の自由などを要求する民主化運動は天安門事件(第2次)のごとく厳しく弾圧されている。この経済体制と政治体制の矛盾が今後どのようになっていくのか、注目されるところである。一国二制度をとる香港で2014年から始まった雨傘運動と言われる民衆運動は、本国のような一党独裁への不安が根底にあり、今後も目を離せない動きとなるであろう。
日本の政党政治
日本の政党も明治時代の自由民権運動から始まり、大正デモクラシーの時代から政党政治が通常化し、憲政党と政友会という保守二大政党の時期がしばらく続いた。1925年、普通選挙制が実現したが、同時に治安維持法が制定された。制限選挙のもとで国民の総意を結集するすべはなく、むしろ昭和の経済不況の中で政党と財閥の癒着などから政党政治への不信が強くなった。国家主義・軍国主義の高まる中、るなどで政党政治は充分機能せず、また政党自身の腐敗もあって政党政治家はテロの対象となって殺害されるなど苦難の歴史が続いた。1936年の2・26事件は実質的な戦前の政党政治の終わりを意味していた。戦後の民主化の中で政党政治が復活したが、いわゆる55年体制で自由民主党の長期政権が続き、社会党も長く野党のまま止まり、このような現象は他国の政党政治では珍しいとされている。それが自民党政治の腐敗(田中政権の金権政治など)をもたらしたとして、90年代から欧米なみの二大政党による政権交代を実現させる動きが出てきた。2009年夏の民主党政権の成立は日本でも二大政党制が定着するかどうか、重要な試金石として注目されたが、沖縄辺野古への基地移転問題、消費税問題で迷走し、さらに東日本大震災が起こってわずか約3年で退陣したため実現しなかった。
その後、自民党は公明党と連立を組むことによって、2012年12月の第2次安倍内閣を成立させ、安倍政権の一強体制と言われる長期政権が2020年まで約8年続いた。この間、民主党は分裂、低迷し、2020年に立憲民主党として再建された。安倍政権末期からコロナ禍に対応する上での混乱が始まり、後継政権の菅内閣、岸田内閣も安定しないまま、2022年7月、安倍元首相の銃撃事件から、統一教会問題が浮上し、さらに2024年に自民党安倍派議員の裏金問題が起こったことで大きな変化が起こった。
2024年10月総選挙 2024年10月の選挙で自民党が単独過半数割れに落ちこみ、政権与党の公明党も大きく議席を減らした。立憲民主党は躍進したが、国民民主党が第三党として浮上しキャスティング・ボートを握る形になった。日本の政党政治も議会内で過半数を占める政党のいない常態、いわゆるハンg・パーラメントという常態となったが、このような状況はイギリス議院内閣制においてもみられ、政党政治では避けて通れないことなので、日本もこの状況をどう克服して政治の安定を実現することができるのか、注意深くみていく必要がある。<2022/11/10記>