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アーヘンの和約/アーヘン条約

1748年、オーストリア継承戦争の講和条約。参戦したオーストリア・フランス・スペイン・イギリスなどの諸国が戦争の終結と占領地の返還などを認めた。マリア=テレジアのハプルブルク家家督相続が国際的に認められると同時に、オーストリアはシュレジェンの放棄(プロイセンの占領)を認めた。

 1748年10月18日、オーストリア継承戦争の講和条約として、フランススペインオーストリアイギリスなどの間でむすばれた多国間協定。オーストリア軍がフランス軍に敗れたたため、オーストリアはプロイセン王国シュレジェンを占領していることを認めたが、その代わりとしてマリア=テレジアのハプスブルク家の家督継承を諸外国に認めさせた。アーヘン和約(アーヘン条約ともいう)の講和内容は同時に戦われていたイギリス・フランス間の殖民地戦争での占領地の返還などを含み多岐にわたっているが、要点は次の3点。
  • 各国はオーストリアのプラグマティッシェ=ザンクチオンを承認する(つまりマリア=テレジアの家督相続を認める)。
  • オーストリアはプロイセンのシュレジェン地方占領を認める(*)。
  • オーストリアはパルマ・ピアチェンツァ(いずれも北イタリアの都市)をスペインに割譲する。
POINT アーヘンの和約の意義 オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘン和約では、プロイセンのシュレジェン占領とオーストリアのマリア=テレジアのハプスブルク家家督相続などが国際的に承認された。しかしシュレジェンを獲得したプロイセンのフリードリヒ2世の実質的勝利であり、つぎのオーストリアのシュレジェン奪還の戦いである七年戦争(1756~63年)へつながる。
(参考) アーヘンはかつてフランク王国のカール大帝の宮廷がおかれたところで、西欧の中心という位置にある。現在はベルギー・オランダ国境に近いドイツ領となっている。フランス語ではエクス=ラ=シャペルという。
(*) アーヘン和約(アーヘン条約ともいう)は、オーストリア・フランス・スペイン・イギリス・オランダ・サルデーニャなどオーストリア継承戦争に加わった各国の講和条約であり、多国間条約でもあるが、プロイセンは入っていない。実はオーストリアとプロイセンの二国間では別個に1742年6月のブレスラウの和約でプロイセンのシュレジェン領有を認め、さらに1745年ドレスデンの和約でプロイセンのシュレジェン領有を認める代わりにオーストリア=ハプスブルク家のフランツ1世の神聖ローマ皇帝即位が認められている。アーヘンの和約は、プロイセン以外の戦争関係国がその事実を認め、同時に上記の様な条件で戦争の終結を認めたものだった。なお、オーストリアとは関係のないイギリスとフランス間の殖民地での占領地の返還も決められており、フランスはインドのマドラス(チェンナイ)をイギリスに返還している。
 なお、ルイ14世が行った南ネーデルラント継承戦争(1667年~)の講和条約もアーヘン和約という。オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘン和約の百年後、1848年には三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が締結されいる。

Episode 〝講和のようにばからしい〟

 18世紀のフランス(ブルボン朝のルイ15世)にとって最大の敵手はイギリスだった。オーストリア継承戦争にもイギリスとの対抗心から参戦したが、その結果たる1748年のアーヘンの講和(和約)は、フランスに何ものももたらさず、〝講和のようにばからしい〟という流行語だけを残した。フランスの危機はフランス史を通じて最もみじめな条約と言われたパリ条約(1763年)でさらに決定的なものとなった。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.62>
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