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プラグマティッシェ=ザンクティオン

1713年、神聖ローマ皇帝カール6世が定めた、ハプスブルク家の家督相続規定。特に女子の家督相続権を認めたことにより、後のマリア=テレジアの相続が可能になった。

 1713年神聖ローマ帝国皇帝カール6世が定めたオーストリア=ハプスブルク家の家督継承に関する勅令で、ハプスブルク家領の不可分と、長子相続制を定めた。長子であれば女子にも相続権が認められた。これは、男子の継承者がいなかったカール6世が、長女のマリア=テレジアに家督を相続させることを念頭においたものであった。
 ただし、ハプスブルク家の家長として世襲できるのはオーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王などの地位であって、神聖ローマ皇帝の位は七人の選帝侯による選挙で選出される建前であった。 → オーストリア  ハプスブルク帝国  オーストリア帝国
※参考 高校生の世界史学習の用語辞典では、かつては「王位継承法」(山川出版社世界史B用語集)、「家憲」(三省堂【詳解】世界史用語辞典)として参考程度に扱われていたが現在は消えている。しかし、オーストリア継承戦争など、18世紀ヨーロッパ諸国の戦争を理解する上で必要な用語と思われるので取り上げた。

長子相続制のねらい

 プラグマティッシェ=ザンクチオンとは「国事に関する勅令(皇帝の命令)」という意味であるが、一般的にはこの時に出された、ここではハプスブルク家の基本的家憲という意味である。内容はハプスブルク家の家領の不可分(分割できないこと)と長子相続制(長子であれば女性にも相続権がある)を認めたもの。ハプスブルク家は兄弟による分割相続が伝統であり、家督も長子と限定されていなかったので、カール6世は長男が若死にし、この年女子のマリア=テレジアが生まれたが、彼女が相続権を失い、他のハプスブルク家人に移ることを恐れた。このハプスブルク家の家憲を神聖ローマ帝国の国制として、他の領邦にも認めさせようとしたのがねらいである。オーストリア支配下にあったボヘミア(ベーメン)、ハンガリークロアティアなどの身分制議会は、一定の自治を認めることを条件に承認した。

オーストリア継承戦争

 しかしやがて1740年にカール6世が死去すると、この規定に従ってマリア=テレジアが家督を継承し、オーストリア大公妃、ボヘミア王、ハンガリー王に即位すると、プロイセン王国フリードリヒ2世バイエルンのなどが異議を申し立てた。フリードリヒ2世は承認する代償としてシュレジェンの割譲を要求、直ちに出兵してオーストリア継承戦争となった。また空位になった神聖ローマ皇帝には1742年にバイエルン公のカール7世が選出され、ハプスブルク家の皇帝継承が途絶えた。プロイセン・バイエルンをフランス・スペイン、オーストリアをイギリスが支援してヨーロッパ各国が関わる戦争となったが、1748年に講和が成立して、マリア=テレジアの家督相続とオーストリア大公の位、その夫のロートリンゲン公フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位が承認されたが、オーストリアはシュレジェンを失った。

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