選挙王制
1572年以降、ヤゲウォ朝断絶後のポーランド王国の国王を選挙で選出する制度。ヨーロッパではポーランド以外にもドイツ(神聖ローマ帝国)、チェコ、ハンガリーなどでも見られる。
ポーランドの選挙王制
ポーランド王国(ポーランド=リトアニア連合王国を継承したもので、現在のポーランドよりも東のリトアニアやベラルーシ、ウクライナの一部を含む広大な領土をもっていた)では、1572年にヤゲウォ朝の王位継承者が無く断絶してから、領主階級(貴族)や小貴族などの支配層(シュラフタという)が構成する議会で国王を選挙するという選挙王制が行われることとなった。選挙は有力貴族の争い、外国の介入を招くことになり、ポーランド国家滅亡の一因となった。シュラフタによって構成される議会は一種の身分制議会であり、この議会で国王が選出される体制をシュラフタ民主制という場合もある。王はハプスブルク家と対抗する必要から、フランスのヴァロワ家やスウェーデンの王家から出身者が選出された。選挙王制時代の17~18世紀は、大国であったポーランドが急速に衰退した時期であり、18世紀末にはポーランド分割による国家消滅を迎えることとなる。注意 国王を選挙で選ぶというのは矛盾しているようで、特に日本人には理解がむずかしく、誤解しやすい。ポーランドの選挙王制とは、
・選挙と言っても国民による選挙ではなく、貴族(シュラフタ)による選挙である。
・国王はポーランド人貴族からだけではなく、外国の王家出身者が選ばれている。
という点を押さえておこう。また、下に記すように選挙王制はポーランドだけでなく、ヨーロッパで他にも見られることに注意しよう。
Episode 国王に夜逃げされる
1572年にポーランドの国王選挙のために開かれた議会では、国内から有力な候補者が立たず、国外からハプスブルク家の大公エルンスト、フランスのヴァロワ家のアンリ(カトリーヌ=ド=メディシスの子)、モスクワ大公イヴァン4世、スウェーデン国王ヨハン3世らの名が上がった。有力だったのは前二者であった。アンリ=ヴァロワ(アンジュー公)は前年のサンバルテルミの虐殺の当事者であったので、プロテスタント貴族の間に懸念はあったが、大半のシュラフタの反ハプスブルク家感情もあって、当選した。こうしてアンリはヘンリク=ヴァレジィ(ヘンリクはアンリのポーランド読み)として即位することになった。議会は新国王即位にあたり、国王は共和国の法と特権を尊重すること(その中には宗教的寛容も含まれる)、議会の二年ごとの開催、議会の同意なしの課税をしないことなどを定めた統治契約を認めさせた(ヘンリク諸条項という)。こうしてフランス出身の22歳の若い国王が即位したが、彼は自らに課せられた数々の拘束に不満を抱いていた。1574年2月にクラクフで戴冠式を挙げたが、わずか4ヶ月後に、兄シャルル9世の訃報に接して夜半密かにポーランドをさり、フランス王についた(これがユグノー戦争の時の三アンリの一人)。ポーランド側は夜逃げした国王の帰還を空しく待ったが、結局、新たな選挙の準備に入った。<井内敏夫他『ポーランド・ウクライナ・バルト史』1998 新版世界各国史20 p.129-130>ヨーロッパの選挙王制
また、ヨーロッパでは選挙王制はけして珍しくなく、よく知られたドイツの神聖ローマ皇帝もそうだったし、チェコやハンガリーでも行われていた。特にドイツでは10世紀ごろからドイツ王を諸侯の選挙で選んでおり、それは神聖ローマ帝国の神聖ローマ皇帝選出でも踏襲され、大空位時代(1254~1273年)という混乱をへて、1356年の金印勅書からは、7人の選帝侯によって選出されたことはよく知られている。ハプスブルク帝国といわれた時代も、ハプスブルク家が皇帝位を世襲しているように見えるが、そうではなく、形式的ではあるが選帝侯による選挙という「儀式」(ある場合には金が乱れ飛ぶ実質的選挙戦となった)が必要なのであった。参考 ドイツの選挙王制
(引用)11世紀以降、このドイツ王国では、王朝の断絶などを契機として、国内諸侯の合意により国王が決定されるようになった。これはやがて、選挙によって王を選ぶ「選挙王制」の成立につながることになる。このシステムは、世襲君主制に馴染みの深い日本では理解しにくいだろうが、中欧では他にもポーランド、チェコ、ハンガリーなどで多くの例があり、古代ゲルマン社会ににおいてもみられた。むろん血統主義も意味を持ち続け、国王はしばしばこれに基づく世襲制の確立をめざしたが、国王の権力を抑制するための「切り札」として、諸侯は国王選出権を保持し続けたのである。こうしてドイツでは、血統主義と選挙制が(結果として)相補的に機能して、王が決定されるようになった。<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.17-18>