ドイツ帝国憲法
1871年にドイツ帝国成立と共に制定された憲法。明治の日本憲法にも影響を与えた。
1871年4月14日に成立したドイツ帝国の基本法。プロイセン王国を中心として結成された北ドイツ連邦憲法をもとに修正を施したもの。主要な内容は次のような点である。
ドイツ帝国憲法でドイツ皇帝はプロイセン王が兼ねることとなっており、初代は1871年即位のプロイセン王のホーエンツォレルン家のヴィルヘルム1世。1888年に91歳で死去し子供のフリードリヒ3世が即位したが在位わずか99日で喉頭ガンで死去、その子ヴィルヘルム2世が29歳で即位した。ヴィルヘルム2世はその後、ビスマルクを罷免して皇帝独裁体制を固め、第一次世界大戦に突入、敗北して退位し、オランダに亡命してドイツ帝国の皇帝位は終わりを告げた。
プロイセンの優位とチェック機能
ドイツ帝国での帝国宰相と議会 帝国宰相は皇帝が任命し、議会に責任を持つ必要がなかったので議院内閣制とは言えなかった。その点で大日本帝国憲法と同じである。また帝国宰相は皇帝の補佐機関であり、分担して行政に当たる内閣は存在しなかった。ビスマルクは国民に普通選挙を認め、保守的な大衆を政治に参加させ、政権支持を固めようとしたらしいが、選挙によって自由主義諸政党が進出する結果となったので、たとえば陸軍予算では議会の反対をおさえるため7年制予算などを強引に通すなどによって議会の無力化を図った。
- ドイツ帝国は22の君主国と3つの自由市からなる25の邦と帝国直轄領(エルザス・ロートリンゲン)からなる連邦制国家である。
- ドイツ皇帝はプロイセン王と一身同体であり、プロイセン首相が帝国宰相を兼ねる。
- 二院制立法府で上院に当たる連邦参議院は邦の代表で構成される。議長は帝国宰相が兼ねる。
- 同じく下院に当たる帝国議会は成年男子普通選挙で議員を選出するが、権限は小さかった。
- 帝国宰相は皇帝が任命し、皇帝に対して責任を負う。
連邦制
ドイツ帝国は、それ以前のドイツ連邦、北ドイツ連邦の形態を継承して、連邦制をとった。しかし以前の連邦に比べて、ドイツ帝国には皇帝とそれを補佐する帝国宰相が置かれ、行政・軍事・外交面で強大な中央集権的権限をもち、二院制の議会も有した。また帝国を構成する邦の中でも、統一の中心となったプロイセンの絶対的な優位が確保されていた。各邦は内閣、上下両院を持ち、外交使節を国内および国外に派遣する権限を有していた。ドイツ帝国としての軍隊統帥権は皇帝が持っていたが、バイエルンだけは平時にバイエルン王が軍の統帥権を認められた。ドイツ皇帝/カイザー
ドイツ帝国皇帝でドイツ語でカイザー(Kaiser)という。神聖ローマ帝国、オーストリア皇帝も同じくカイザーと称しており、ロシア帝国のツァーリと同じく、ローマ時代のローマ皇帝の称号としてのカエサルに由来する。ドイツ帝国憲法でドイツ皇帝はプロイセン王が兼ねることとなっており、初代は1871年即位のプロイセン王のホーエンツォレルン家のヴィルヘルム1世。1888年に91歳で死去し子供のフリードリヒ3世が即位したが在位わずか99日で喉頭ガンで死去、その子ヴィルヘルム2世が29歳で即位した。ヴィルヘルム2世はその後、ビスマルクを罷免して皇帝独裁体制を固め、第一次世界大戦に突入、敗北して退位し、オランダに亡命してドイツ帝国の皇帝位は終わりを告げた。
連邦参議院
ドイツ帝国の連邦参議院(ブンデスラート)は二院制立法府のうち、帝国議会に対して上院にあたる。ドイツ帝国を構成する25の邦の代表によって構成され、議長は帝国宰相が兼ねる。議員の構成は各邦に割り振られており、プロイセンが17票をもち、他にはバイエルンが6票、ザクセンとヴュルテンベルクが4票、バーデンとヘッセンが3票などと邦によって差があり、プロイセンの優位が確保されていた。法律批准権、宣戦・条約締結に関する発言権、帝国議会解散決議権をもっていた。プロイセンの優位とチェック機能
(引用)(ドイツ)帝国の立法府としては、国民代表機関としての帝国議会と、各国政府代表である連邦参議院があり、帝国の立法・行政上後者の権限が大きかったのが特徴なのだが、この連邦参議院の全票58のうち、プロイセンの票は17、全体の30%である。むしろ控えめな票数というべきであろう。憲法改正には特別の多数決が必要で、ほぼ4分の1相当の14票で否決できたから、プロイセンは一国で自国に不都合な憲法改正を阻止できた。しかしバイエルンなどいくつかの国が結束すればプロイセンのごり押しも比較的容易に阻止できたのであって、私はむしろ中小国にも相応の配慮がなされているという印象をもつ(各1票の小国票合計がプロイセンと同数)。プロイセンが圧倒的な力をもっているが、さりとてごり押しはできず、諸国が互いにチェックしながらバランスを保っている。それがドイツ帝国の政治の仕組みである。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2000 岩波新書 p.144>
帝国議会
帝国議会(ライヒスターク)はドイツ帝国での二院制の立法府で、連邦参議院に対して下院にあたる議会。議員は25歳以上男性普通選挙で、直接投票・秘密投票で選出される。人口10万人に1人の議員が選出され、法案の発案権、審議権と予算の審議権を持っていたが議決権はなかった。ドイツ帝国での帝国宰相と議会 帝国宰相は皇帝が任命し、議会に責任を持つ必要がなかったので議院内閣制とは言えなかった。その点で大日本帝国憲法と同じである。また帝国宰相は皇帝の補佐機関であり、分担して行政に当たる内閣は存在しなかった。ビスマルクは国民に普通選挙を認め、保守的な大衆を政治に参加させ、政権支持を固めようとしたらしいが、選挙によって自由主義諸政党が進出する結果となったので、たとえば陸軍予算では議会の反対をおさえるため7年制予算などを強引に通すなどによって議会の無力化を図った。
(引用)帝国議会は当時ヨーロッパで最も民主的な男子普通選挙で選ばれており、まさに国民代表議会といえる議会であった。当然のことながら法律の議決権や予算審議権をもっていて、この議会を無視してはもはや何びとも帝国の政治を行うことはできないのである。しかし、それでは帝国議会が帝国の政治の中心機関になったかと言えば、そうではない、連邦参議院が法律の認可権をもっていて、最終的には決定権はむしろ連邦参議院の方にあったのだ。その上、宰相の任免権は皇帝一人が握っており、議会にはこの関係で何の権限もなかった。だから不信任決議で政府を倒すこともできず、イギリス的な議会主義政治は行われ得ないのだが、反面政府の方も、議会を敵に回すと法律も予算も成立せず、動きがとれないことになる。従って、政府は議会に縛られないが、無視もできないわけで、まさいくチェック・アンド・バランスの関係と言えるだろう。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2000 岩波新書 p.145>