印刷 | 通常画面に戻る |

アメリカ合衆国憲法修正第13条

南北戦争中にリンカンによって主導され、1865年に実現したアメリカ憲法の修正で、奴隷制を禁止した修正条文。これによって黒人奴隷制度の廃止は確定したが、解放された黒人は経済的な自立が困難であったこともあり、南部では投票権その他の公民権をうばわれるなどの黒人差別が続いた。

 南北戦争中のアメリカ合衆国で、リンカン大統領が1863年1月に出した奴隷解放宣言を具体化するため、戦後の1865年1月に連邦議会で成立した憲法修正。奴隷制度を禁止し、意に反する苦役を犯罪に対する刑罰以外に禁止するという内容であった。アメリカ合衆国憲法の修正の発効には南北戦争で戦っている南部諸州も含めて諸州の4分の3による批准が必要とされていたので、その条件がクリアされたのは、戦争終結とリンカン暗殺後の1865年12月18日のことであった。
 憲法修正第13条の発効によってアメリカにおける黒人奴隷制の廃止は確定したが、なおも黒人差別は一掃されず、また南部諸州では黒人の公民権を否定する州法を制定する動きが出てきて、問題は第二次世界大戦後の1960年代まで続くこととなる。 → 公民権運動  公民権法

資料 アメリカ合衆国憲法修正第13条

 第1節 奴隷および本人の意に反する労役は、犯罪に対する刑罰として当事者が適法に宣告を受けた場合を除き、合衆国内あるいはその管轄に属するいずれの地にも存在してはならない。
 第2節 議会は、適当な法律の制定によって本条の規定を施行する機能を有する。<大下尚一他編『史料が語るアメリカ』1989 有斐閣 p.281>

憲法修正を実現したリンカンの政治力

 1863年1月に奴隷解放宣言をだしたリンカン大統領であったが、戦争が終われば放棄されてしまうかもしれないことを彼自身が恐れ、「宣言の法的有効性に疑問が付されるかもしれない」と考えていた。そこで奴隷制廃止を憲法の修正条項とすることで確固たるものにするため、憲法修正第13条案が連邦議会に提案され、まず64年4月8日に上院を通過したが、下院では共和党が賛成、民主党が反対票を投じた結果、可決に必要な3分の2に達しなかった。しかし、64年11月に行われた大統領選挙でリンカンは再選され、奴隷解放は国民の支持を受けたかたちとなった。それをうけて、65年1月から、リンカンは下院での憲法修正案の可決に向けて全力をあげることとした。
 その際、リンカンは強引とも言える手法をとっている。当時、戦争の長期化に対する不満も強まっており、一部議員からはモンロー教書を無視して強行されたフランスのナポレオン3世のメキシコ出兵の野心を挫くには、アメリカ合衆国が内戦をやめ、メキシコを支援する必要があり、一刻も早く講和すべきであるという提案もなされていた。南部もそれに呼応して講和使節を北部に派遣しようとしていた。しかし、リンカンはここで講和に応ずることは南部の奴隷制維持の要求を飲まざるを得なくなるとして、反対した。リンカンはあくまで南部を無条件で降伏させ、奴隷解放を受けいれさせる必要があると考えていた。そのため、リンカンは議会の答弁で南部からの講和使節がワシントンに到着したというのは誤報だと断言した。実際には使節団はワシントンに来ておりリンカンに面談を申し込んでいた。
 また、下院に対しては大統領選挙で状況が変わったことを理由に一議案不再議の原則を破り、憲法修正を再提案した。またそのままではふたたび否決されてしまうので、猛烈な民主党議員の切り崩しを行った。一部の民主党議員にはリンカンが直接面談して来期選挙で不利になると恫喝したり、ある場合には議決後のポストを約束するという懐柔まで行った。それが効を奏して、5名の民主党員が寝返り、結果的には1865年1月31日に賛成119、反対56で、修正案は可決された。<ドリス・K・グッドウィン『リンカーン』下 2013 中公文庫 p.346~351>
 このあたり、リンカンが単なる理想主義者ではなく、現実政治家として策略を用いていたことは上記グッドウィンの『リンカーン』に詳細に語られている。その書を原作として、さらにディテールを膨らましているのがスピルバークの映画『リンカーン』である。リンカンをダニエル・デイ=ルイス、妻のメアリーをサリー=フィールド、修正案の提出者スティーヴンスをトミー=リー=ジョーンズが演じている。リンカンの奴隷解放への意欲と南北戦争で同胞が死んでいくことへの悩みも濃厚に描かれているが、それよりも露骨な議会対策や妻のヒステリーぶりなどの裏面もしっかりと出ていて興味深い。民主主義と指導者の資質という問題を考えさせる映画である。