印刷 | 通常画面に戻る |

グリム兄弟

19世紀前半のドイツの文学者、言語学者。童話や伝説の収集などによってドイツ国民意識の高揚に努めた文学者。『グリム童話』で著名である。1837年、「ゲッティンゲン七教授事件」にも関わる。

グリム兄弟

グリム兄弟 WikimediaCommons

 彼らが収集した童話や伝承の数々は『グリム童話』として世界中に知られており、ロマン主義文学の中に含まれている。その中の“白雪姫”“ヘンゼルとグレーテル”“赤ずきん”などの話は日本だけでなく、世界中の子どもたちに知られているが、兄弟がこの童話集を編纂したのには同時のドイツの置かれた状況が大きな背景となっている。ナポレオンによって蹂躙されたドイツが、その支配から解放されてドイツ連邦という連合体を作ったにもかからず、各国の君主がバラバラに支配し、ドイツ人の統一国家としての体をなしていなかった。それがナポレオン戦争ではフランスに敗れ、工業化ではイギリスに大きく後れを取っている理由であると考えた人びと(フンボルトやフィヒテ)は、ドイツ民族としての連帯感を作り出しドイツの統一を実現しようと運動を開始した。グリム兄弟は文学者・学者としてその先頭に立ち、民話や童話の収集によってドイツ人としての自覚と誇りを獲得することに務めたのだった。 → ドイツ

『グリム童話』の編纂とその時代

 兄のヤーコプ=グリム(1785-1863)と弟のヴィルヘルム=グリム(1786-1859)はドイツのヘッセンに生まれ、ともにマールブルク大学で法律学を学び、ゲッティンゲン大学に奉職した。兄弟が童話を集め出したのは1806年で、その年ナポレオンによってライン左岸がフランスに併合され、兄弟の住んでいたカッセルもフランス軍に占領された。『グリム童話集』第1巻は1812年に出版されたが、その年にナポレオン軍はモスクワ遠征で敗れ、退却するフランス軍をプロイセン・オーストリア・ロシア軍が追撃した。ナポレオン敗北後のウィーン会議でドイツ連邦が生まれた1815年に『グリム童話集』第2巻が刊行された。

ゲッティンゲン七教授事件

 二人が在籍していた大学のあるゲッティンゲンは、かつてハノーファー選帝侯が治める都市で、1714年に選帝侯ゲオルクがイギリス国王として迎えられてハノーヴァー朝ジョージ1世として即位してからは大ブリテン王国と同君連合となり、ナポレオン戦争後のウィーン会議でハノーファー王国に昇格し、ドイツ連邦を構成する領邦の一つとなっていた。イギリスと同君連合王国であったので、1833年にはイギリス流の立憲君主制・議会政治を定めた自由主義的な憲法が制定された。ところが、イギリスでヴィクトリア女王が即位したのにともない同君連合を解消した時、新たにハノーファー国王となったエルンスト=アウグストは憲法を廃棄し、旧憲法と身分制議会の復活を決めた。それはウィーン体制時代の自由主義運動を抑圧する動きの一つだった。
 1837年11月18日、それに対してゲッティンゲン大学の教授たち7人が抗議し、自由主義憲法の継続と身分制議会の無効を訴えた。署名した言語学教授グリム兄弟とエヴァルト、法学者アルブレヒト、歴史学者ダールマンとゲルヴィヌス、物理学ヴエーバーの七人はただちに国王によって罷免され、ダールマン、ゲルヴィウス、ヤーコプ=グリムは国外追放となった。この「ゲッティンゲン七教授事件」はドイツ各地に学問・思想の自由、立憲政治を守れ、の声が沸騰し、支援が広がった。七教授の復職は直ちには実現しなかったが、抗議の動きはやがて1848年3月18日のドイツのベルリン三月革命へとつながっていく。ドイツ史ではウィーン体制の時代1815年から三月革命の1848年までを「三月以前」というが、グリム兄弟が加わったゲッティンゲン七教授事件は、その時代を象徴する出来事だった。
 ドイツの歴史上、彼らは「ゲッティンゲンの七人」Göttinger Sieben と言われ学問・思想の自由の象徴としてて名高い。第二次世界大戦後の冷戦時代に、ドイツの核武装に反対してゲッティンゲン宣言を出した18人の物理学者も、それに倣って「ゲッティンゲンの18人」と言われている。
21世紀の日本でも・・・ 政治権力による大学教育への干渉では、日本では1933年、文部大臣鳩山一郎が京都大学法学部の滝川幸辰の『刑法読本』を国家破壊の著作であるとして休職処分としたことに対し、法学教授全員の7人が辞表を提出して抗議した「京都大学七教授事件」があったことを思い出させる。その他、森戸辰男(東大、1920年)・矢内原忠雄(東大、1937)・河合栄治郎(東大、1938年)・津田左右吉(早稲田、1940年)など戦前の軍国主義のもとで学問、思想の自由がなかった戦前にはたびたび起こった。
 ところが類似の事態が2020年9月に日本で起こって驚くこととなった。発足したばかりの菅内閣で日本学術会議員6名が任命されないという問題が起こったのだ。学術会議側が挙げた候補を内閣が拒否することはなかったという慣例が破られたことから、憶測がとんだ。政府は理由を明らかにしなかったが、この6人はいずれも前安倍内閣のときの一連の安保法制などに批判的な立場であったため、政府による学術会議への政治的介入ではないか、という批判が沸き起こった。日本社会がこの問題を深刻に受け止めたのは、戦前の言論・学問の弾圧を思い出させたからであった。そして世界史では似たような事件183年前に起きていたことを思うと、21世紀の日本の歴史の遅れ、あるいは巻き戻しに不安なものを感じる。<2024/7/26記>

フランクフルト国民議会

 ゲッティンゲン大学七教授事件によって大学を罷免されたグリム兄弟は、1840年からはベルリン大学に招かれ、共に教授となった。1848年、の三月革命を受けて5月にフランクフルト国民議会が召集されると、兄ヤーコプは領邦を代表する議員に選ばれ、憲法草案を作成し、第一条で「すべてのドイツ人は自由である。ドイツの土地は隷属を許さない。」とすることを主張した。しかしその提案は否決され、会議に失望したグリムは10月に議員を辞職した。ドイツ統一問題は暗礁に乗り上げ、国民会議は崩壊し、ドイツ統一と自由の実現は遠のいたが、グリム兄弟は民話・童話に続いてドイツ法の研究や『ドイツ語辞典』の編纂を通じてドイツ民族の統一をめざす仕事を続けた。『童話集』にも何度も手を入れ、最終版は1857年に刊行された。

Episode グリム童話は残酷?

 第二次世界大戦後、『グリム童話』の残酷性が西ドイツで問題となった。例えば“ヘンデルとグレーテル”ではグレーテルは魔女をパン焼き釜の中へ突き落として焼き殺してしまう。その他に、真っ赤に焼いた鉄の靴を履かせて死ぬまで踊らせたり(白雪姫)、眼をえぐり取ったり、女を裸にして内側に釘を打った樽に入れて馬に引きずらせる(がちょう番の娘)などが、ナチスの強制収容所に見られるドイツ人の残酷さにつながっているという指摘がなされ、当時のイギリス占領軍がこの問題を取り上げ、1948年8月には「とうぶんのあいだ昔話集の出版を禁止する」という命令を出している。また秩序、服従、男性優位、他民族(ユダヤ人)排斥などのドイツ=ナショナリズムの特質がグリム童話に潜在している、という指摘もある。
 それらのグリム童話論に対して、野村泫(ひろし)氏は、童話・民話は文学の原型であり、人間の無意識や、社会の歴史的時事が反映したものであると論じ反論している。またグリム童話が編纂されたドイツの状況を見るべきこと、さらに最近の研究でグリムの素材とした話がドイツのものだけではなく、フランスから入ってきた話も多いことが明らかになったことなどを指摘している。<野村泫『グリム童話 子どもに聞かせて良いか?』1989 ちくま学芸文庫版>