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アブデュルハミト2世

19世紀後半のオスマン帝国スルタン。ミドハト憲法を制定したが露土戦争勃発に際して停止し、専制政治を再開。パン=イスラーム主義を採用してスルタンの権威の回復を図ったが帝国内の諸民族の動きが活発になり、1908年の青年トルコ革命によって翌年に退位に追い込まれた。

ミドハト憲法を停止

 オスマン帝国の危機が深まる中、スルタン(在位1876~1909)として専制政治を展開した。アブデュル=ハミト2世とも表記。国内の立憲運動に押され、1876年、宰相ミドハト=パシャに憲法(ミドハト憲法)を起草させ制定したが、翌年ロシアの南下が強まり露土戦争が起こると、1878年に憲法を停止、専制体制を復活させた。

パン=イスラーム主義を掲げる

 アブデュルハミト2世は、オスマン帝国の危機を乗り切りるため、イスラーム教国であるという理念にもとづき、スルタンは宗教的権威者であるカリフを兼ねているというスルタン=カリフ制を強調した。さらに、列強が帝国内のトルコ人以外のイスラーム教徒(アラブやエジプトなど)を支援して介入してくることを警戒し、オスマン帝国のスルタンの元でのイスラーム教徒の団結を図るため、パン=イスラーム主義を掲げた。
 それはすでにイスラーム改革運動を展開していたアフガーニーが主張していたことで、西欧帝国主義の侵略に対し、ムスリムが民族と宗派の違いを乗り越えて団結して抵抗しよう、という主張であった。アブデュルハミト2世がトルコ海軍のエルトゥールル号をアジアのイスラーム教国に派遣したのも、パン=イスラーム主義の宣伝が一つの目的であった。

Episode トルコ海軍の日本訪問

 1889(明治22)~90(明治23)年にかけて、オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト2世の派遣したトルコ海軍の帆船エルトゥールル号が日本を訪問した。アジアのイスラーム教国を歴訪し、日本には条約の締結を目的として寄港した。ところが帰国途中、和歌山県串本沖で座礁し沈没してしまった。その時日本人漁民が救助にあたり、乗員650人中、69人を救助し、その後生存者はトルコに送り届けられた。現在も串本町にはエルトゥールル号の慰霊碑があり日本とトルコの友好のしるしとなっている。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.240>
アフガーニーを監禁 アブデュルハミト2世はアフガーニーをイスタンブルに招き、そのパン=イスラーム主義の宣伝に利用しようとした。しかし、宮廷内のトルコ人支配層の中にはタンジマート以来のオスマン主義も残っており、一方でトルコ人としての自覚を強めてトルコ民族主義も生まれており、アフガーニーは孤立した。スルタンもその影響範囲をコントロールするため彼を幽閉し死に至るまで軟禁した。アブデュルハミト2世にとっては、イスラーム世界の統一を現実に目指すなど、危険思想以外の何ものでもなかった。アブデュルハミト2世がパン=イスラーム主義を掲げたのは、露土戦争で失われたヨーロッパの領土から多くのムスリムが帝国内に流入したことを受け、ムスリムを正統的なムスリム臣民として均一化するために、イスラーム的価値観を利用したのだった。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.252-254>

民族問題の発生

 アブデュルハミト2世は露土戦争後は外交を慎重に進め戦争を避けたが、その間も1881年にフランスがチュニジアを占領、さらに名目上はまだオスマン帝国支配下にあったエジプトでウラービーの反乱が起きると、イギリスはその鎮圧を口実に翌1882年に出兵して、エジプトの保護国化を実行した。
 オスマン帝国領内では、東アナトリアでアルメニアの民族独立運動が始まり、1894年に彼らが不当な課税に対する抗議行動を起こすと、スルタンの先兵として組織化されていたクルド人部隊が彼らを襲撃するという民族衝突が起こった。西方では辛うじてオスマン帝国領として残っていたマケドニアでキリスト教徒住民が独立運動を起こし、鎮圧はされたがその後もマケドニアは民族問題の紛糾が続いた。

青年トルコの台頭

 アブデュルハミト2世はミドハト=パシャを追放、後に処刑したほか、改革派官僚を排除してスルタンによる専制政治体制を復活させた。その独裁政治は約30年にわたって続いたが、内外共に不安定であった。そのような独裁体制に不満を持つ若手将校の中に「青年トルコ」(「青年トルコ人」ともいい、主に西欧側からの呼び方だった)と総称される人びとが現れた。彼らの運動をリードしたのは「統一と進歩」委員会と呼ばれるグループで、次第に影響力を拡げたが1896年にはクーデタが発覚して弾圧され海外に逃れた。

青年トルコ革命で退位

 1908年青年トルコの影響を受けたグループがサロニカで挙兵、憲法の復活を要求した。アブデュルハミト2世が派遣した鎮圧軍が逆に蜂起に加わるという事態となり、スルタンはあっけなく彼らの要求を容れて憲法の復活を宣言した。これが、青年トルコ革命であり、放棄した中心メンバーのエンヴェルなどが政権を握った。翌年、アブデュルハミト2世は33年にわたるスルタンの位から退位した。

Episode 「血まみれのスルタン」

 アブデュルハミト2世は「瀕死の病人」オスマン帝国の実質的な最後のスルタン。その専制政治は大変厳しく、反対派の立憲主義者を弾圧するために全国にスパイを放ち、電信網を張りめぐらしたという。とくにアルメニア人に対するはげしい迫害から「血まみれのスルタン」とか、「地獄落ちのアブデュル」などと言われた。しかし彼が作り上げた電信網が青年トルコ革命やケマルの独立運動でも役だったというのは皮肉である。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1991 中央公論社世界の歴史20 p.213 などによる>

アブデュルハミト2世の時代

 アブデュルハミト2世の時代は、専制体制に逆戻りしたとはいえ、かえってタンジマート以来の「西洋化」改革の成果が首都イスタンブルのみでなく、地方にも波及し定着した時代であった。近代西欧モデルの諸学校も、リセや中学校が各地に普及し、その教師を養成するための師範学校も各地にひらかれていった。その結果、帝国各地で新しいタイプの知識人が生まれた。彼らを読者層として多くの新聞、雑誌が刊行され、近代文学も本格的創作の時代を迎えた。その象徴が1883年のオリエント急行の開業だった。<鈴木董『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』1993 講談社現代新書 p.50>
 アブデュルハミト2世の統治下で、ドイツの援助によってバクダード鉄道をはじめとした鉄道路線が大幅に延伸し、それにくわえて道路網や汽船事業など輸送手段が発達、人や物、情報の移動が容易となってアナトリア内陸部の市場化が進んだ。言論弾圧の一方で図書館や博物館の開館、公教育の拡充も図れた。1871年、シュリーマンのトロイの発掘が許可されたのもこの時代だった。<小笠原『前掲書』 p.255-256>

Episode オリエント急行の背景

 1883年に開業したイスタンブルとパリを結ぶオリエント急行は、のちにはロンドンにまでのび、豪奢な寝台車、舞踏会もひらけるサロン車をそなえ、欧米人にとり東洋情緒のシンボルとなった。その背景には、19世紀後半にはじまった、西欧列強によるオスマン帝国への鉄道投資ブームがあった。1856年、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道がイギリスにより敷設されて以来、列強はアナトリアでつぎつぎと鉄道利権をあたえられ、鉄道を敷設した。鉄道は帝国の経済発展をもたらしたが、同時に鉄道敷設権を通じて列強は帝国に対する政治的影響を浸透させていった。その一方で、帝国はタンジマート時代の1854年に第一回国債を発行してから、改革と度重なる戦争の費用を外債に依存し、アブデュルハミト2世専制時代の1881年には総額1億9千万英ポンドに達し、身動きできない状態になっていた。債権者であるイギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・オランダの6国は管理委員会を設置し、帝国の税収の多くをその管理下に置いた。政府は緊縮財政を余儀なくされ、鉄道も外国利権に抑えられて明確な経済発展のための施策に欠いていた。<鈴木董『同上書』 p.51-52>

出題

 東京大学 2003年 (交通手段の発達に関連して)「1883年10月4日にパリを始発駅として運行を開始したオリエント急行は、ヨーロッパ最初の国際列車であり、近代のツーリズムの幕開けを告げた。他方で、終着駅のある国にとっては、その開通はきびしい外圧に苦しむ旧体制が採用した欧化政策の一環であった。オリエント急行の運行開始時のこの国の元首の名と、終着駅のある都市の名を記せ。

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書籍案内

坂本勉・鈴木董編
『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』
1993 講談社現代新書

山内昌之
『近代イスラームの挑戦』
世界の歴史 20
1991 中央公論社

小笠原弘幸
『オスマン帝国』
2018 中公新書