パン=イスラーム主義
イスラーム教徒が民族、宗派の違いを越えて協力することをめざす様々な思想をいうが、特に19世紀後半に顕著になったヨーロッパ帝国主義諸国の侵出に対して、アフガーニーによって提唱され、オスマン帝国、エジプト、イランなどの中東各地における反英闘争を導いた思想が重要である。
18世紀ごろから、西欧キリスト教世界の工業化、主権国家体制の整備という顕著な動きと、それによる植民地化の危機が迫る中で、イスラーム世界に様々なイスラーム改革運動といわれる動きが起こった。その一つの潮流には、サウジアラビアのアラブ人の中から始まった、トルコ人やイラン人に拡がった神秘主義を否定してムハンマド時代の信仰に戻ろうというワッハーブ派の動きがあった。それに対して、民族や宗派の違いを越えてムスリムとしての団結を強めようという潮流も現れ、その思想傾向が「パン=イスラーム主義」(汎イスラーム主義)といわれた。これも広く捉えればイスラーム改革運動の一つの流れであるが、民族にとらわれずムスリムとして結束することによって、イギリスなどの帝国主義の侵略からイスラーム世界を守ろうという意志が強いことが特徴である。
同じようにイスラーム社会の改革の可能性を探った思想家に、インドのサイイド=アフマド=ハーンがいる。彼はヨーロッパの科学と教育を取り入れることでイスラームの復興を確信し、イギリスの統治とも共存しようとした。また同じインドのムハンマド=イクバールは民主主義や議会制度などを称賛したが、それらを借りる必要はなく、同様な社会建設はシャリーアの中に含まれており、その再解釈で可能だと考えた。
1908年に専制政治にかわる立憲政治の実現を掲げて青年トルコ革命がおこると、政権を握った「青年トルコ」はオスマン主義を掲げて近代オスマン国家の建設を模索したが、対外的な危機も続く中でそれをトルコ民族の危機と受け取り、トルコ民族主義も台頭してきた。オスマン主義やトルコ民族主義者からは、パン=イスラーム主義は保守的で非現実的な復古主義として批判され、衰えていった。また青年トルコの指導者エンヴェル=パシャは、トルコ民族主義をさらに進めて、オスマン帝国以外の中央アジア起源のトルコ系民族と連帯しようというパン=トルコ主義を掲げるようになった。
1914年に青年トルコ政権の下でオスマン帝国は第一次世界大戦参戦、その際スルタンはカリフでもある立場から世界のイスラーム教徒にジハードを呼びかけたが、それに対する反応は殆どなく、むしろ大戦中にイギリス側の工作もあって、アラブ人が反オスマン帝国に起ち上がる「アラブの反乱」が始まった。これは彼らのアラブ民族主義運動にあわせたものであり、アラブ民族主義からみれはトルコ人やイラン人はイスラーム本来の信仰をねじ曲げたものであり、彼らと手をつなげというパン=イスラーム主義は認められないこととであった。
1973年の第4次中東戦争の際、アラブ産油国による石油戦略と共に世界中のイスラーム教国家にイスラエルとの戦いを呼びかけたのも、パン=イスラーム主義の精神によってなされたといえる。しかしその後、パレスチナ問題の深刻化が進み、テロを手段として実行するアラブ原理主義運動が台頭すると共に次第に困難になっていった。特に1979年のイラン革命以降は、スンナ派とシーア派、その他の少数派との宗派対立と民族的対立が激しくなって、パン=イスラーム主義の思想の具体化はますます困難な状況となっている。
<以上、2020/8/23 修正。パン=イスラーム主義とアラブ民族主義はイスラーム世界における改革運動である点では共通するが、その指向するところは大きく異なる。以前のこの項で両者の違いを明確に理解せず誤った説明となってしまったので、全面的に訂正しました。指摘していただいた代ゼミ教材センター越田氏に感謝します。なお、訂正にあたっては、平凡社『イスラム事典』、小笠原弘幸『オスマン帝国』などを参照した。関連して、アフガーニー、アラブ民族主義、イスラーム改革運動なども修正しました。>
東方問題とカリフ制
18世紀後半のオスマン帝国の弱体化に乗じたヨーロッパ諸国、特にイギリス、フランス、ロシア、オーストリア=ハンガリーなどがバルカン半島に介入して競い合うという東方問題が起こると、オスマン帝国内のイスラーム教徒の結束を強めるために政治的統治者であるスルタンは宗教的権威者であるカリフを兼ねている(スルタン=カリフ制)ことを意識的に強調するようになった。このようなカリフへの帰属意識やムスリムの一体感は、インドでも起こり、イギリスの中東からインドにかけての植民地支配を脅かす脅威と捉えられたので、1870年代後半にはむしろヨーロッパ側で「パン=イスラーム主義」ということばが造語され、急速に広がった。アブデュルハミト2世
そのころ、アフガニスタンで活動を開始したアフガーニーは、オスマン帝国、エジプト、イランさらにはヨーロッパ各地に脚を伸ばし、帝国主義への戦いのためイスラーム圏で民族や宗派の違いを克服してムスリムの団結を呼びかけ、反英闘争を組織していた。その運動も「パン=イスラーム主義」の中心的運動として捉えられた。19世紀末になるとオスマン帝国スルタンアブデュルハミト2世は、アフガーニーを利用しようとしてイスタンブルに招いた。しかし、オスマン帝国内では一方で、帝国領土内の多様な民族を同質の国民とすることによって統一を維持しようとするオスマン主義や、帝国を形成した支配的民族としてのトルコ人であることの自覚を強めようとするトルコ民族主義などが交錯し、渦巻いている状況だった。また諸外国もアフガーニーを過激思想の持主と警戒していたので、アブデュルハミト2世もアフガーニーを幽閉してしまい、彼は獄中で1897年に死去した。参考 「領土」「民族」「宗教」
オスマン帝国が近代国家への移行を模索する中で「領土」「民族」「宗教」のいずれを国家統合の柱にするのか、という問題に直面した。アブドュルハミト2世が取り上げたパン=イスラーム主義はその中の「宗教」を柱として国家の統一を維持しようとするものであった。それに関する説明としては、現行の世界史教科書の中で「パン=イスラーム主義」をキーワードとして取り上げている帝国書院の『新詳世界史B』が最も詳しい。他社の教科書を使用している高校生にも参考になる。(引用)イスラーム世界ではさまざまな民族や宗教が共存していたが、近代に入り西洋とであうなかで、どのような形で近代国家をつくるべきかが模索された。「領土」を重視する場合、オスマン帝国の臣民をすべてオスマン人とし、宗教の違いなく平等に扱おうとした。「民族」を重視する場合は、トルコ人・アラブ人など、民族的なつながりを強調し、同じ民族であれば、宗教が違っても同じ民族の同胞とされる。これらに対して、再び「宗教」によるつながりを強めて近代的なイスラーム国家をつくろうとする考え方が、パン=イスラーム主義であった。「領土」「民族」「宗教」をめぐる考え方の違いは、中東では現代にいたるまで大きな争点となっている。<帝国書院の『新詳世界史B』2018版 p.252>
アフガーニーの思想
このようにパン=イスラーム主義とは、ヨーロッパのキリスト教諸国であるイギリスが帝国主義政策をとり、イスラーム圏を植民地支配していくという動きに対する抵抗運動として、18世紀後半に興った思想傾向である。そのなかで、特に重要なアフガーニーの思想は、帝国主義の攻勢に対してムスリムは民族や宗派の違いを捨てて団結する必要がある、というものであり、彼は実際の活動を通じて、エジプトのウラービー運動やイランのタバコ=ボイコット運動などに強い影響を与えた。しかし、アフガーニーのパン=イスラーム主義を利用してオスマン帝国の維持を図ろうとしたアブデュルハミト2世の目論見は、宮廷内のオスマン主義やトルコ民族主義との対立によって失敗し、オスマン帝国の再興にはつながらなかった。パン=イスラーム主義の展開
アフガーニーの思想は、1884年にパリでその弟子のエジプト人ムハンマド=アブドゥフとともに刊行を開始した評論誌『固き絆』によってアフリカからインドネシアにいたるイスラーム圏に広くその影響を及ぼした。ムハンマド=アブドゥフ(1849~1905)は、イスラーム教の理念は西洋の立憲政治と矛盾しないと説き、ウラービー運動の理論的支柱となった。ムハンマド=アブドゥフとその弟子でシリア出身のラシード=リダー(1865~1935)は、アフガーニーと同じく、従来のウラマーの時代おくれの考えがイスラーム教の弱体化を招いているとして、伝統的なシャリーアを原則としながらも解釈をしなおすことで時代に即した近代的な法規とすることが出来ると考えた。同じようにイスラーム社会の改革の可能性を探った思想家に、インドのサイイド=アフマド=ハーンがいる。彼はヨーロッパの科学と教育を取り入れることでイスラームの復興を確信し、イギリスの統治とも共存しようとした。また同じインドのムハンマド=イクバールは民主主義や議会制度などを称賛したが、それらを借りる必要はなく、同様な社会建設はシャリーアの中に含まれており、その再解釈で可能だと考えた。
民族主義の台頭
しかし、アフガーニーとその後継者たちの思想は学生や知識人には同調者を得たが、イスラーム教徒大衆は関心を示さなかった。彼らの支持を集めるようになるのは、むしろ、民族主義の思想であり、より直接的に帝国主義諸国の植民地支配と闘うことだった。ラシード=リダーの弟子であったハサン=アル=バンナーは敬虔なイスラーム教徒であると同時に熱心な活動家として、1928年にエジプトでムスリム同胞団を結成する。その運動は学生や知識人だけでなく商人や民衆を含む大衆運動に発展し、1940年代は大きな政治勢力となり、1949年にバンナーが暗殺されたが、第二次世界大戦後のエイジプトでも勢力は衰えず、エジプトやサウジアラビア、イラン、アフガニスタンなどで、民族主義的な拡がっていく。<M.S.ゴードン/奥西峻介訳『イスラム教――イスラムの歴史と現在』1994 青土社 169-174>青年トルコとパン=イスラーム主義
アフガーニーのパン=イスラーム主義を利用しようとして失敗したオスマン帝国では、その後も国家の近代化をめぐる模索が続いたが、アブデュルハミト2世は専制政治を復活させ、改革派を弾圧した。しかし、タンジマートの時期以来、ヨーロッパに留学した官僚の中には、立憲政治の復活とオスマン主義による国民国家建設への希望は消えていなかった。1908年に専制政治にかわる立憲政治の実現を掲げて青年トルコ革命がおこると、政権を握った「青年トルコ」はオスマン主義を掲げて近代オスマン国家の建設を模索したが、対外的な危機も続く中でそれをトルコ民族の危機と受け取り、トルコ民族主義も台頭してきた。オスマン主義やトルコ民族主義者からは、パン=イスラーム主義は保守的で非現実的な復古主義として批判され、衰えていった。また青年トルコの指導者エンヴェル=パシャは、トルコ民族主義をさらに進めて、オスマン帝国以外の中央アジア起源のトルコ系民族と連帯しようというパン=トルコ主義を掲げるようになった。
1914年に青年トルコ政権の下でオスマン帝国は第一次世界大戦参戦、その際スルタンはカリフでもある立場から世界のイスラーム教徒にジハードを呼びかけたが、それに対する反応は殆どなく、むしろ大戦中にイギリス側の工作もあって、アラブ人が反オスマン帝国に起ち上がる「アラブの反乱」が始まった。これは彼らのアラブ民族主義運動にあわせたものであり、アラブ民族主義からみれはトルコ人やイラン人はイスラーム本来の信仰をねじ曲げたものであり、彼らと手をつなげというパン=イスラーム主義は認められないこととであった。
パン=イスラーム主義の諸相
しかし、イスラーム世界の団結を呼びかける動きはその後も断続的に続いている。第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国が倒れて、トルコ共和国が成立する過程でカリフ制が廃止されるとインドを中心にしてヒラーファト運動(カリフ擁護運動)が起こった。ムスリムでないガンディーもインドの独立を実現するうえでムスリムとの協力は不可欠と考え、盛んにヒラーファト運動を支援した。イスラーム世界の統合の象徴であるカリフを存続させる運動は、パン=イスラーム主義の一つと言うことができる。第二次世界大戦後の動き
第二次世界大戦後独立したパキスタンは、一時強力にパン=イスラーム主義を唱え、戦前からあったイスラーム世界会議の本部をカラチに移した。エジプトのナセル大統領は、民族主義的なムスリム同胞団を弾圧しつつ、カイロのアズハル大学を通じて世界中のイスラーム教徒へ働きかけを行っている。1961年にはマレーシア連邦のアブドゥル=ラーマン首相はイスラーム諸国連盟を提唱し、66年サウジアラビア王国のファイサル国王はヨルダン、イラン、チュニジアなどに呼びかけてイスラーム同盟の結成を呼びかけた。69年にはそれがイスラーム諸国会議として実現した。1973年の第4次中東戦争の際、アラブ産油国による石油戦略と共に世界中のイスラーム教国家にイスラエルとの戦いを呼びかけたのも、パン=イスラーム主義の精神によってなされたといえる。しかしその後、パレスチナ問題の深刻化が進み、テロを手段として実行するアラブ原理主義運動が台頭すると共に次第に困難になっていった。特に1979年のイラン革命以降は、スンナ派とシーア派、その他の少数派との宗派対立と民族的対立が激しくなって、パン=イスラーム主義の思想の具体化はますます困難な状況となっている。
<以上、2020/8/23 修正。パン=イスラーム主義とアラブ民族主義はイスラーム世界における改革運動である点では共通するが、その指向するところは大きく異なる。以前のこの項で両者の違いを明確に理解せず誤った説明となってしまったので、全面的に訂正しました。指摘していただいた代ゼミ教材センター越田氏に感謝します。なお、訂正にあたっては、平凡社『イスラム事典』、小笠原弘幸『オスマン帝国』などを参照した。関連して、アフガーニー、アラブ民族主義、イスラーム改革運動なども修正しました。>