オスマン主義/改革勅令
オスマン帝国の衰退に歯止めをかけ、19世紀後半に新たな国家統合の理念として採用され、改革勅令やミドハト憲法で具体化された、帝国内の全住民に、宗教・民族の差をなくし平等な権利を与えようとした理念。
オスマン帝国はイスラーム教スンナ派を奉じるトルコ系民族が樹立した国家であったが、広大な領土を獲得したことによって、非イスラーム教徒(キリスト教徒、ギリシア正教徒、アルメニア教会、ユダヤ教徒など)と、アラブ民族、スラヴ民族、ギリシア系民族、エジプト人などの非トルコ系民族も多数かかえていた。非イスラーム教徒に対しては比較的寛容で伝統的に庇護民(ジンミー)として扱い、政治的な服従と人頭税などの支払いなどを条件に、ミッレトと言われる自治的な集団をつくらせ信仰の自由を認めていた。しかし現実には、非イスラーム教徒である非トルコ系民族は、様々な面において権利を認められず、オスマン帝国に対する不満をもつ場合もあった。
オスマン帝国のスルタン政府は、体制の改革の必要を感じ取り1839年にタンジマートといわれる改革を開始し、オスマン帝国の近代国家への脱皮が模索されるようになった。クリミア戦争の危機を脱した後、イギリス・フランスの圧力が強まるなかで、若手官僚を中心とした立憲運動が始まった。その時新たな国家理念として掲げられたのが「オスマン主義」であった。
これに先立つギュルハネ勅令ではイスラーム教徒・非イスラーム教徒の法の前の平等、身分保障などが定められたが、なおもイスラーム的な枠組みの中での改革にとどまっていた。それに対してこの改革勅令では、非イスラームに平等な権利を与えるという、イスラーム成立後1200年の歴史を転換させる踏み込んだ改革であった。イギリス・フランスの圧力によって発布したことに対する批判はイスラーム教徒の側から起こったが、すでに前年の1855年には非イスラーム教徒に課せられていた人頭税(ジズヤ)は廃止され、その代わりイスラーム教徒と同じ兵役が課せられるなどの平等化が図られており、実効性のある改革となった。
ミドハト憲法はアジアで初めての近代的憲法であり、議会の開設と共に、宗教の別なくすべての臣民はオスマン人であり、自由かつ平等である、という規定が含まれており、これは「オスマン主義」をオスマン帝国の国家統合の中心に据えるということを意味し、従来のイスラーム教国家から脱却し、近代的な国民国家への転換を図ったものであった。
しかし、スルタン・アブデュルハミト2世は、翌1877年にロシアが南下を再開して露土戦争が勃発すると、ミドハト憲法は停止され、改革は頓挫してスルタン専制政治に復帰した。
しかし、このスルタンのパン=イスラーム主義を利用しようという目論見は、宮廷内でオスマン主義による改革を進めていた官僚や、トルコ民族としての自覚を強めていたトルコ民族主義者などの反発を受け、また諸外国もアフガーニーを危険な過激派とみて警戒したので、スルタンも彼を見限り幽閉してしまった。こうしてパン=イスラーム主義を利用しようという目論見は頓挫した。
しかし現実は、露土戦争の敗北でヨーロッパ側の領土が失われたので、帝国内のキリスト教徒は激減し、逆に旧オスマン領から多数のイスラーム教徒が移住してきたので、宗教を越えた帝国臣民の統合という意味は次第に稀薄になっていった。さらにオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合、ブルガリア王国の独立が続き、イタリア=トルコ戦争では北アフリカを失い、1912年の第1次バルカン戦争でついにイスタンブルを除くバルカン半島を蜂起した。これは「オスマン主義」がもはや実態として意味をなさなくなったことを示しており、青年トルコは事実上その理念を放棄し、急速に「トルコ民族主義」へと傾斜していく。
1914年にクーデターで政権を握ったエンヴェル=パシャはトルコ民族主義をさらに深め、「パン=トルコ主義」(あるいはトゥラニズム)という、トルコ民族の起源を中央アジアにあると考えて、アジアのトルコ系民族(その中には日本人も含まれると考えられていた)の連帯に期待したが、それは現実のものにはならなかった。
近代国家への模索
資本主義経済体制をとるようになったヨーロッパ諸国は、19世紀に入りとイギリス、フランスなどとともに、それ以前からオスマン帝国領を脅かしていたロシアも含めて、バルカン半島のオスマン帝国領の非トルコ系民族の民族運動を支援する形で東方問題が深刻となり、17紀末に始まったオスマン帝国領の縮小がさらに進んでオスマン帝国の危機を迎えた。オスマン帝国のスルタン政府は、体制の改革の必要を感じ取り1839年にタンジマートといわれる改革を開始し、オスマン帝国の近代国家への脱皮が模索されるようになった。クリミア戦争の危機を脱した後、イギリス・フランスの圧力が強まるなかで、若手官僚を中心とした立憲運動が始まった。その時新たな国家理念として掲げられたのが「オスマン主義」であった。
改革勅令
クリミア戦争はロシアの敗北となり、オスマン帝国はその南下をくい止めることができたが、イギリス・フランスは莫大な戦費の代償として、オスマン帝国に対する圧力を強めることとなった。そのようなイギリス・フランスの要求に応える形でスルタン政府は1856年2月、改革勅令を発布した。それは、帝国内の非イスラーム教徒(非ムスリム)に対し、イスラーム教徒と同様の権利を与えるもので、それまで制限されていた政治参加、裁判における平等、信教の自由、そして非イスラーム教徒に対する侮蔑的表現の禁止を定めたものであった。これによって、帝国内のキリスト教徒に対する扱いを口実にしたイギリスやフランスの介入を防ぐ意味もあった。これに先立つギュルハネ勅令ではイスラーム教徒・非イスラーム教徒の法の前の平等、身分保障などが定められたが、なおもイスラーム的な枠組みの中での改革にとどまっていた。それに対してこの改革勅令では、非イスラームに平等な権利を与えるという、イスラーム成立後1200年の歴史を転換させる踏み込んだ改革であった。イギリス・フランスの圧力によって発布したことに対する批判はイスラーム教徒の側から起こったが、すでに前年の1855年には非イスラーム教徒に課せられていた人頭税(ジズヤ)は廃止され、その代わりイスラーム教徒と同じ兵役が課せられるなどの平等化が図られており、実効性のある改革となった。
(引用)こうしてオスマン帝国は、これまでのイスラム世界における「不平等を前提とした共存」から、「平等な共存」の実現へと、大きな一歩を踏み出した。たとえば、オーストリアがユダヤ人の法的平等を認めたのが1867年であることに鑑みると、オスマン帝国の新規性がよく理解されよう。宗教を問わず、オスマン帝国の臣民をすべて「オスマン人」として平等に統合しようという試みは、オスマン主義と呼ばれている。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.241>
「新オスマン人」の登場
1865年にはイスタンブルで、ナームク=ケマルらによって新オスマン人と言われる秘密結社がつくられ、彼らは立憲制度の実現と共に、イスラーム教徒と非イスラーム教徒の違いを越えた「オスマン人」を自覚せよと訴えた。彼らは弾圧され、多くが外国に逃れたが、その宣伝活動によって、立憲主義や国民国家という概念が初めてオスマン帝国の民衆レベルに知られるようになった。ミドハト憲法の制定と停止
1876年、スルタンのアブデュルハミト2世のもとで、宰相ミドハト=パシャを中心に作成されたミドハト憲法が制定された。ミドハト=パシャのもとで多くのウラマーと共に制憲委員会に加わったのが「新オスマン人」のリーダーの一人、ナームク=ケマルであった。ミドハト憲法はアジアで初めての近代的憲法であり、議会の開設と共に、宗教の別なくすべての臣民はオスマン人であり、自由かつ平等である、という規定が含まれており、これは「オスマン主義」をオスマン帝国の国家統合の中心に据えるということを意味し、従来のイスラーム教国家から脱却し、近代的な国民国家への転換を図ったものであった。
しかし、スルタン・アブデュルハミト2世は、翌1877年にロシアが南下を再開して露土戦争が勃発すると、ミドハト憲法は停止され、改革は頓挫してスルタン専制政治に復帰した。
アブデュルハミト2世のパン=イスラーム主義
露土戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、バルカン半島の領土の大半を失うという危機に陥った。アブデュルハミト2世はその状況の中で立憲政治を復活させるのではなく、ますます専制政治の姿勢を強めていった。1890年代になるとスルタンは、カリフとしての宗教的権威を強めるためにスルタン=カリフ制をオスマン帝国の原理として強調すると同時に、パン=イスラーム主義(汎イスラーム主義)の思想家、革命家として知られていたアフガーニーを招き、民族の違いを越えたイスラーム教徒(ムスリム)としての意識を国家統一の理念にしようとした。しかし、このスルタンのパン=イスラーム主義を利用しようという目論見は、宮廷内でオスマン主義による改革を進めていた官僚や、トルコ民族としての自覚を強めていたトルコ民族主義者などの反発を受け、また諸外国もアフガーニーを危険な過激派とみて警戒したので、スルタンも彼を見限り幽閉してしまった。こうしてパン=イスラーム主義を利用しようという目論見は頓挫した。
青年トルコ
「オスマン主義」の理念は、その後も改革派の官僚の理念に残っており、また、専制政治に反対する青年将校らが作った秘密組織「青年トルコ」もそれを採用し、1908年の青年トルコ革命で立憲政治を復活させると共に、「オスマン主義」が再び帝国の国家理念とされた。しかし現実は、露土戦争の敗北でヨーロッパ側の領土が失われたので、帝国内のキリスト教徒は激減し、逆に旧オスマン領から多数のイスラーム教徒が移住してきたので、宗教を越えた帝国臣民の統合という意味は次第に稀薄になっていった。さらにオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合、ブルガリア王国の独立が続き、イタリア=トルコ戦争では北アフリカを失い、1912年の第1次バルカン戦争でついにイスタンブルを除くバルカン半島を蜂起した。これは「オスマン主義」がもはや実態として意味をなさなくなったことを示しており、青年トルコは事実上その理念を放棄し、急速に「トルコ民族主義」へと傾斜していく。
1914年にクーデターで政権を握ったエンヴェル=パシャはトルコ民族主義をさらに深め、「パン=トルコ主義」(あるいはトゥラニズム)という、トルコ民族の起源を中央アジアにあると考えて、アジアのトルコ系民族(その中には日本人も含まれると考えられていた)の連帯に期待したが、それは現実のものにはならなかった。