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チュニジア

マグレブ地方の旧カルタゴの地。ローマに征服され、ローマ帝国に支配される。5世紀にヴァンダル人が王国建国するも、ビザンツ帝国に滅ぼされる。7世紀以降、イスラーム化し、いくつかの王朝が交代した後、オスマン帝国領となる。近代では、1881年フランスの保護国とされ、第二次世界大戦後の1956年に独立。その後ベンアリ政権の長期化から停滞、独裁化し、2011年春のジャスミン革命で民主化始まった。


(1)古代のチュニジア

カルタゴとローマ

チュニジア

現在のチュニジア Yahoo Map

 チュニジアはアフリカ北岸、マグリブ地方の中央部に位置する。中心都市はチュニスで、その近郊には古代カルタゴの遺跡がある。かつてフェニキア人の建てたカルタゴ帝国として栄えた。ローマとのポエニ戦争ではカルタゴの町は徹底的に破壊され、その結果、この地はローマの属州となった。

ヴァンダル王国とビザンツ帝国

 5世紀にゲルマン人の一派であるヴァンダル人が遠く東ヨーロッパから移動し、イベリア半島を経て北アフリカに入り、さらにこの地にヴァンダル王国を建設した。しかし、533年、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝は地中海に進出し、ヴァンダル王国も滅ぼした。この地はビザンツ帝国の支配に服することとなった。

チュニジア(2)イスラーム帝国の支配

 この地の住民はベルベル人であったが、677年にウマイヤ朝のイスラーム帝国が、軍営都市(ミスル)としてカイラワーンをこの地に建設し、ビザンツ帝国を駆逐してアラブ化が進み、西方マグリブ地方のベルベル人地域へのイスラーム教進出の基地となった。

イスラーム地方政権の興亡

 750年にウマイヤ朝からアッバース朝に代わり、マグリブ地方もバグダードのカリフの支配を受けたが、8世紀後半にその統制力が弱まると各地に地方政権が分立するようになった。チュニジアにおけるその後のイスラーム教国家は次のような経緯を取った。
  • アグラブ朝(800~909) カイラワーンを都にアッバース朝の宗主権を認めつつ自立した。アグラブ朝は艦隊を整備して地中海に進出し、シチリア島、イタリア半島、フランス南部などに海上から遠征軍を送り、地中海を制圧し、中世ヨーロッパを圧迫した。特にシチリア島には827年に攻撃を開始し、878年にはシラクサを占領し、11世紀後半のノルマンの進出までのイスラーム支配時代の基礎を築いた。
  • ファーティマ朝 10世紀初頭にシーア派を奉する信仰運動がこの地に起こり、ムハンマドの娘ファーティマの血統をひくと自称するファーティマ朝が起こって、909年にアグラブ朝を倒した。ファーティマ朝は急速に北アフリカを支配したが、まもなく東方のエジプトに入り、カイロを建設して本拠をエジプトに移し、シリアにも進出するようになった。
  • ズィール朝(972-1148) ファーティマ朝が去ったあとのチュニジアにはベルベル人の地方政権のズィール朝が成立、当初はファーティマ朝の宗主権を認め従っていたが、次第に独立の姿勢を強め、アッバース朝カリフに従うようになった。そのためカイロのファーティマ朝はアラブ系遊牧民を使ってズィール朝を攻撃させ、そのためにカイラワーンは破壊された。その結果、アラブ系遊牧民の移住が進み、ベルベル人との同化が進んだ。ズィール朝は1070年に分裂しアルジェリアにハンマード朝が分立したが、そのような混乱のさなか、南イタリア・シチリア島にはノルマン人の侵出があいつぎ、1072年にシチリア島を奪われ、さらにチュニジア本土もノルマン人の侵攻を受けた。
  • ムワッヒド朝の支配 ズィール朝の分裂やノルマン人の侵出という混乱状態が続くうちに、西方のモロッコに起こったベルベル人のムワッヒド朝がその勢力を東方に伸ばしてきて、ノルマン人を撃退すると共に、ハンマード朝・ズィール朝を滅ぼし、1152年からはチュニジアもその支配を受けることになった。
  • ハフス朝 ムワッヒド朝が衰退すると北アフリカ各地に後継国家が分立したが、チュニジアには1228年にムワッヒド朝のチュニス総督がハフス朝(1228~1574)として自立した。1270年にはフランス王ルイ9世の率いる第7回十字軍がチュニスに来襲したが、ルイ9世はこの地でチフスに罹って死んだため不成功に終わった。

チュニジア生まれの歴史家

 イスラーム世界の歴史家として名高いイブン=ハルドゥーンは1332年にチュニジアのチュニスで生まれた。彼はイスラーム法の法官(カーディ)としてチュニスの王に仕えたが、宮廷内の紛争を逃れて西方に向かい、イベリア半島のグラナダのナスル朝に仕えたが、そこでも安住できずモロッコのフェスやアルジェリアのトレムセンなどの地方政権に仕えながら転々とした。最後は母国チュニジアに戻ったが、法官として行政能力を発揮したのはほんの数年だったらしい。かれはマグレブ地方とイベリア半島のイスラーム諸国を遍歴しながら、それらの諸国が成長・衰退をくりかえすのを見て、一つの歴史理論を組み立てた。さらにその理論を確かめるべくマムルーク朝の都カイロに移り住んで膨大な書物、『歴史序説』を著述した。イブン=ハルドゥーンは現在もチュニジアの産んだ偉人としてチュニスの町に大きな銅像が建てられている。<樺山紘一『地中海』2006 岩波新書 p.30-33>

チュニジア(3)オスマン帝国の地中海制覇

 ハフス朝時代のチュニスは地中海の中央に位置することから、シチリア島や各地との交易で栄えていたが、内紛から次第に衰え、海賊に脅かされるようになった。

オスマン帝国の進出

海賊バルバロッサ 特に有名なのがバルバロッサ兄弟といわれる海賊で、彼らはレスボス島出身の海賊で地中海を荒らし回り、アルジェリアを根拠とし、弟のバルバロッサ=ハイレッディーンは1534年にチュニジアを占領した。ハフス朝のスルタンはスペインの神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)に救援を要請、翌年にカール5世はバルバロッサ弟をチュニジアから撃退した。
スレイマン1世 しかし、バルバロッサはオスマン帝国のスレイマン1世に服してオスマン帝国艦隊を率い、1538年にプレヴェザの海戦でカルロス1世のスペインとローマ教皇などの連合艦隊を破り、オスマン帝国の地中海制海権の確立に貢献した。
フサイン朝 こうしてオスマン帝国は1574年にチュニジアを征服しハフス朝を滅ぼした。その後、19世紀までオスマン帝国領として続き、イスタンブルのスルタンが任命するパシャの下で、内政と徴税を任されたベイが現地人から撰ばれた。次第にベイが自立する傾向が強まり、18世紀にはフサイン家がベイとして実質的にチュニジアを支配するようになった。これをフサイン朝(1705-1957)ともいう。

チュニジア(4)フランスの保護国化

 チュニジアはオスマン帝国の形式的な宗主権のもとで、ベイ(太守)であるフサイン家が自立(フサイン朝ともいう)していたが、19世紀になるとフランス、イタリアという地中海の対岸の国の植民地、あるいは領土化の野心の対象となっていった。

フランスの地中海進出

 近代に入ると、地中海の対岸であるフランスとイタリアがチュニジアの地への侵出をはかるようになった。まずフランスは1830年のアルジェリア出兵後、1842年に直轄地としたので、その維持には隣接するチュニジアの領有が必要と考えるようになった。
フランス・イタリアの抗争 1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フランス・イタリアの管理下に置かれ、1873~77年の改革派官僚のハイルッディーンによる改革が行われたが宮廷内の保守派の反対で成果を上げることが出来なかった。普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジアに侵出したのでフランスは危機感を強め、1878年のベルリン会議でイギリスのエジプト侵出を認める代わりにチュニジアにおけるフランスの権利を認めさせた。
フランスの保護国に フランス1881年、3月に軍隊を派遣して首都チュニスを占領し、5月にバルドー条約を結び、チュニジアの太守(ベイ)は外交権と財政管理をフランスに委ね保護国とした。6月にはベイがフランスに屈服したことに怒った民衆が反乱を起こしたが鎮圧された。さらにフランスは、1883年にマルサの協定によって正式に保護領とし、フサイン朝のベイは名目的権威は保持したが、外交・軍事などの権限はフランスが握った。
 フランスの動きに反発したイタリアは、ドイツ・オーストリア=ハンガリーに近づき、1882年三国同盟を結成する。

チュニジア(5)フランスからの独立

1956年にフランスから独立。その後、独立指導者ブルギバとその後継者ベン=アリ長期政権が続いた。

チュニジアの民族運動

 フランスの保護国となる前の1870年代に改革派の官僚ハイルッディーンを中心に民族的な近代化運動が始まった。彼は1875年にサーディキー=コレージュという中等教育機関を設立し、宗教教育と並行してヨーロッパ人教員による外国語・科学など近代的教育を実施し、エリートの養成を図った。このサーディキー=コレージュ出身者を中心に1907年に青年チュニジア党が結成され、独立と立憲君主政を求める知識人の運動が開始された。1911年にイタリアがチュニジアの東のトルコ領トリポリ・キレナイカ(現リビア)の領有を図ってイタリア=トルコ戦争(伊土戦争)が起こると、青年チュニジア党の運動は大衆運動と結びつき急速に発展し、1920年にドゥストゥール党(憲政党)が結成された。

ブルギバらの独立運動

 これは、1861年に制定された憲法(ドゥストゥール)の再施行とフランス保護領支配の終結を掲げてる民族主義政党として発展した。この党員であったブルギバは、フランスで法律と政治を学びながら独立への意欲を燃やし、より現実的な要求を掲げて1934年にネオ=ドゥストゥール党(新憲政党)を結成、フランスからの独立闘争を呼びかけた。
 第二次世界大戦後もブルギバはフランス当局による逮捕、亡命などの苦境にあったが、1952年にフランスによる抑圧を国連に提訴したがフランスは激しい弾圧を加え独立を認めなかった。しかし、戦後のフランスの国内政治の不安定、同時にインドシナ戦争などの緊迫もあって、1954年マンデス=フランス首相はチュニス(旧カルタゴ)に飛び、軍事・外交を除いた自治権を付与した後に、独立を認める約束をした。

チュニジアの独立

 1956年、チュニジアはフランスからの独立を達成した。フランスが独立を認めたのは、国際世論に配慮するとともに激化する隣のアルジェリア独立運動が飛び火することを恐れたからであった。アルジェリアにくらべれば、チュニジア及びモロッコは比較的入植者の数が少なかったので、独立承認に踏み切ったものと思われる。それでもこの2国が独立したことは、アフリカ諸国の独立が相次いだ1960年の「アフリカの年」の先駆けとなった。<フランスの国内事情に関しては渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.69-74 などを参照>

ブルギバ大統領

 1956年にフランスは完全独立を認めたが、当初はチュニスのフサイン朝のベイ(太守)を君主とするチュニジア王国としての独立であった。首相となったブルギバは共和国の樹立を目指し、早くも翌57年7月に制憲議会がフサイン朝の廃止と共和制の樹立を宣言してベイ(国王)を退位させ、自ら大統領に就任して共和国となった。
 ブルギバは女性の権利をたかめるなどの世俗化政策を進め、エジプトのナセル大統領にならって1960年代からは社会主義に傾斜して、ネオ=ドゥストゥール党も社会主義を冠することとした。しかしエジプトがイスラエルを承認するとエジプトとの関係は悪化し、1982年にはイスラエルのレバノン侵攻でベイルートを追われたアラファト議長のパレスチナ解放機構(PLO)をチュニスに迎え入れ、その活動を保護した。しかし、政権が長期化するなか、イスラーム過激派が台頭すると、それに対しては厳しく弾圧した。

ベン=アリ政権

 1987年、ブルギバの引退に伴いベン=アリが大統領に就任、後継者として指名されての就任であったが、ブルギバ政権の基本方針を転換し、無血クーデターとも言われた。ベン=アリ政権は社会主義路線から転換して社会主義ドゥストゥール党を立憲民主連合と改称し、政治犯の釈放、多党制を認めるなどの一定の民主化を実現した。彼は独立運動に参加した後、軍人として活動して軍を押さえ、圧倒的な国民の支持を背景に、憲法改正を繰り返して大統領任期を延長し、政権の独占を図った。チュニジアはアルジェリアリビアという東西の隣国に比べて民主化、解放の度合いが進み、一定の経済成長も実現していたが、ベン=アリ政権の一族による不正や貧富の差の拡大などが次第に顕著となってきた。

チュニジア(6)ジャスミン革命

長期間続いたベンアリ独裁政権行き詰まる中、2011年1月に民衆の蜂起による民主化が実現し、ジャスミン革命と言われた。この動きは他のアラブ諸国に大きな影響を与え「アラブの春」の発端となった。

ジャスミン革命

 2010年12月、チュニスで一人の青年が街頭で野菜を売ろうとしたところ、警官に野菜を没収された。青年が抗議の焼身自殺。その知らせがインターネットやツィッターによってチュニジアのみならず、世界中に知られ、それがきっかけで一挙に反ベン=アリ政権の運動が激化した。ベン=アリは鎮静化をTVで訴えたが、長期政権と一族の不正にうんざりしていた国民は抗議の声を収めなかった。2011年1月3日、首都チュニスが争乱状態となる中で、肝腎の軍部が反政府側に付くことを表明、一気に情勢が進展して、1月14日に大統領一族はサウジアラビアに亡命、23年にわたる長期政権があっけなく倒れた。
 これはチュニジアのもっとも一般的な花の名を取ってジャスミン革命といわれるようになった。その後、安定した民主政権づくりは困難が続いているが、この革命は劇的な広がりを見せ、3月にはエジプトのムバラク政権が倒れたのを初め、他にシリア、イエメン、シリア、リビアといった北アフリカから西アジアにかけてのアラブ諸国の長期政権をゆさぶる大きな動きとなった。この動きはアラブの春といわれるようになった。

News 息子の死「自由導く」

 2011年1月のチュニジアでの「ジャスミン革命」の発端となった青年の死はなぜ起こったか。なぜそれが「革命」に転換したのか。デモ発端となった青年の母が語った話は次のようなものだ。
(引用)青年の名は、ムハンマド・ブアジジさん(26)。首都チュニジアから南に約280㌔の街シディブジットに母と妹3人らと暮らしていた。高校卒業後まともな仕事に就けず、約7年間、リヤカーの荷台で果物を売って家族を養ってきた。
 事件は昨年12月17日朝に起きた。いつもの路上で量り売りを始めた時、地元の役人3人が「営業許可がないだろう。罰金400ディナール(約2万3千円)だ」と脅してきた。1日の売り上げが5~7ディナールでは到底払えない額だ。当局の嫌がらせは日常茶飯事だったが、商売道具のはかりを奪われそうになり、抵抗したムハンマドさんは顔を殴られ、体を何度も蹴られた。3人はうずくまるムハンマドさんにつばを吐き、果物を奪っていったという。
 怒りに震えたムハンマドさんは、果物の返却を求めてすぐに地元知事の事務所を訪れた。だが、中にすら入れない。ムハンマドさんは近くの商店で手にいれたガソリンを頭からかぶり、ライターを手に叫んだ。「どうして耳を傾けないんだ。火をつけるぞ」。それでも誰もとりあってくれなかった。昼前になり、ムハンマドさんは意を決したかのように自ら火をつけたという。
 口コミで広がったこの出来事は、市民それぞれが持つ抑圧の記憶を刺激した。息子(25)がいわれのない容疑で突然逮捕された経験を持つ貿易商ファトヒ・シーハウィさん(50)も事件を聞き、昼過ぎに知事事務所前に駆けつけた。「もうたくさんだ。われわれには尊厳が、そして若者には仕事が欲しいだけなんだ」。デモは夜にには数百人規模に膨れあがり、夜通し続いたという。
 自殺する若者も次々に現れた。大卒で失業していたというカドリ・ロトフィさん(33)は12月月末、自宅そばの井戸に身を投げた。母親のアリーサさん(60)は「将来を悲観し、死んで政府に抗議するしかないと思ったのだろう。息子のような若者はたくさんいる」と訴える。
 ベンアリ前大統領側はこうした怒りの広がりを鎮めようとしたが、無神経な言動がかえって火に油を注いだ。
 ムハンマドさんの母親モマヌビアさん(61)は、チュニスの病院で看病していた12月28日、大統領宮殿に招かれた。前大統領は「救命に全力を尽くす」と語ったが、ムハンマドさんの名前さえ知らなかった。前大統領はその後病院を見舞いに訪れたが、数分間しか滞在せず、「フランスの病院に運ぶ」という約束も果たさなかった。
 こうした態度がインターネットを通じて広まり、「ベンアリは我々のことを人間と思っていない」とデモがますます拡大したという。ムハンマドさんは1月4日にチュニスの病院で死亡。ベンアリ前大統領が国外脱出したのは10日後の14日だった。
 ムハンマドさんはチュニジアで「英雄」と受け止められている。妹のベスマさん(16)は兄こそが前大統領を倒した立て役者という思いを込め、ムハンマドさんの顔写真をベンアリ前大統領の顔と入れ替えた合成写真を作った。「笑顔の絶えない兄だった。もう戻ってこないけど、誇りに思う」<朝日新聞 2011年1月25日記事>

革命後の苦悩

 2011年のジャスミン革命でベン=アリ政権が倒れた後、新憲法の制定を目的とした制憲議会の選挙が行われた。イスラーム教を政治理念とする政党ナハダが第一党になったが、単独では政権を維持できず、世俗政党との連立となった。
民主的な憲法制定にノーベル賞 2011年10月にチュニジアで初めての自由選挙で憲法制定議会選挙が実施され、その結果、2014年2月に基本的人権、権力の分散、男女平等などが盛り込まれ、当時「アラブ圏で最も民主的」と評される憲法が制定された。翌15年には、民主化の推進に主導的役割を担った労組、財界、人権推進、法曹の4団体からなる「国民対話カルテット」にノーベル平和賞が贈られた。
 革命直後の議会選挙ではイスラーム政党ナハダが第一党となったが、低迷する景気の回復に失敗、失業率も増加、社会不安がひろがり、イスラーム過激派が台頭した。革命後の政治と経済の回復という課題は「アラブの春」後のアラブ諸国の革命政権にとって、共通の課題となった。しかし、ナハダ党政権下では行政機能が停滞し、汚職や多発して国民の不満が蓄積した。安定を求める声が強まるなか、新憲法成立後の2014年10月に実施した総選挙ではイスラーム政党ナハダに代わって世俗派政党ニダチュニス(チュニジアの呼びかけ、の意味)が第一党となった。ニダチュニスには旧ベン=アリ政権の与党メンバーやビジネス界、労組関係者が多く、ナハダの政権運営能力の低さに失望した有権者の期待をうけており、ナハダ党首も現実的に協力を表明した。<朝日新聞 2014年10月31日記事>
 しかし議会ではナハダと世俗政党の対立が激化、革命以降、首相が8人も交代する不安定な状態が続いた。この間、経済危機は深刻となり、コロナ禍への対応にも失敗、債務不履行の危惧も強まった。2019年の大統領選挙で選出された憲法学者サイードはそれまでの政党とは関係が無く、清貧なイメージがあったので人気が高く、国民は強い大統領の統治によって危機を脱することを望むようになった。21年7月にはサイード大統領は首相を解任、議会機能停止を発表し、強権的な姿勢をあきらかにした。

NewS 国民投票、再び独裁色強まる

 チュニジアのサイード大統領は、2022年7月に政治の刷新を掲げて新たな憲法の改正のための国民投票に打って出た。新憲法は原案作成の過程が不透明であるだけでなく、議会による大統領の罷免の規定がない、司法や立法の独立性が保証されないなど、問題が多かったので、大半の政党は国民投票をボイコットした。7月25日に国民投票の結果が発表されると、それは賛成92%という高い支持で新憲法が成立した。投票率はわずか27%にすぎなかったが、新憲法成立の条件に投票率の規定はなかった。国民投票に参加したサイード大統領支持派は、新憲法で強力な力を得た大統領によって、アラブの春以来の混迷から脱却できると歓迎したが、一方で大統領の独裁色が強まり、革命前のベン=アリ政権の時代に戻ることを危惧する声も多い。<朝日新聞 2022年7月27日記事などにより構成>
 サイード大統領の独裁色が強まることが予想されるが、大統領も投票率の低さ(確定投票率は30.5%)という現実があるので、すぐに独裁になる可能性は低いとみられている。<朝日新聞 2022年7月28日記事 上智大学名誉教授私市(きさいち)正年氏の解説>