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プラット条項/プラット修正

1902年、アメリカがキューバ独立に際し、キューバ憲法に修正条項としてアメリカの干渉権を認めさせた規定。この規定によってキューバは事実上のアメリカの保護国となった。

 マッキンリー大統領のもとでアメリカ帝国主義が本格的に推進され、その一環として、1898年米西戦争の講和条約であるパリ条約によってコロンブス以来の西インド諸島(カリブ海域)におけるスペインの勢力は排除された。スペイン植民地であったキューバ独立は約束され、プエルトリコはアメリカに帰属することが決まった。
 アメリカは、スペインに代わってカリブ海域を「わが海」として支配すべく、キューバにたいして、その独立を認める条件としてキューバへの干渉権、海軍基地の設置、キューバの他国との条約や借款の制限などを認めた8項目の「プラット条項」をキューバ憲法に付記することを求めた。キューバの制憲議会は最初それを否決したが、アメリカが占領を継続することを申し入れてきたため、1901年6月、キューバ制憲議会はやむなく受諾した。その上で、1902年5月にキューバ憲法にこのアメリカの修正条項が加えられて成立し、ようやくキューバ共和国の独立が実現した。

アメリカがキューバ独立の条件として強制

 プラット条項を憲法に付加することでキューバは独立したものの、事実上アメリカの保護国とされることとなった。これは19世紀末のアメリカ帝国主義の顕著な例であり、セオドア=ローズヴェルト大統領の棍棒外交ともいわれる力によるカリブ海政策が展開されていくこととなる。
 この状態は1934年に、プラット条項が廃止されるまで続くが、その後もアメリカ資本によるキューバ経済支配は、第二次世界大戦後のカストロの指導によるキューバ革命まで続く。また、キューバの事実上の保護国化に伴って、1903年に締結された互恵通商条約で設けられたアメリカ海軍のグアンタナモ基地は、現在もアメリカ海軍が使用している。

資料 プラット条項

 1900年、キューバを平定したアメリカ軍政長官ウッド大将は、ハバナに制憲議会を招集、代議員に憲法とアメリカ-キューバ関係を規定する条約案の起草を指示した。代議員が憲法と条約案の作成にあたっている時、プラット修正といわれる八条の条文がアメリカから独立の条件として強要された。
1901年3月 プラット修正
  • 1898年4月20日に承認された共同決議「キューバ人民の独立」において、スペイン政府は同島におけるその権限と統治権を放棄し、地上軍および海上軍をこの島と海域から撤退させること、また米国大統領にたいしこの決議を実施するために米国の地上軍及び海上軍の利用を命じることが宣言さている。これを実施するにあたり、大統領は、以下のような憲法のもとに政府が打ち立てられると同時に、同島の統治と支配をその人民に委ねる権限を有する。すなわちこの憲法では、その一部またはそれに付加される規定において、基本的には以下のような両国間の将来の関係を規定する。
  • 一 キューバ政府はいかなる列強とも、キューバの独立を損なう、あるいは損ない得る条約ないしは協約を決して結んではならない。また、いかなる列強にたいしても、植民地化によって、または軍事的あるいは海軍上の目的、およびその他のために、島内のいかなる部分においても占拠や支配を認可したり許可してはならない。(二項省略)
  • 三 キューバ政府は、キューバの独立の維持、および生命、財産、個人の自由の保護にふさわしい政府の維持のために、さらにパリ条約により米国に課せられ、かつ、今やキューバ政府により承認され、約束されるべきキューバにたいする義務の履行のために、米国が介入の権利を行使することに同意する。(四、五、六項省略)
  • 七 米国によるキューバ独立の維持と同国民の保護を可能とするために、さらに、米国自身の防衛のために、キューバ政府は米国に対し補給ないしは海軍の根拠地として必要な土地を指定される地点に売却ないしは貸与する。
<『世界史史料7』歴史学研究会編 岩波書店 2008年 p.398-399より抜粋>

プラット条項の経緯

 プラット条項(Platt amendment、Platt はこの条項を清議した当時のアメリカ上院外交委員会委員長の名前。amendment は「修正」の諱ので、「プラット修正」というのが正しい。米西戦争の結果、1898年にパリ条約(1898)が締結され、キューバの独立は承認されたものの、アメリカ軍の占領下に置かれた。そのもとでキューバでは1901年11月に制憲議会が発足し、独立に向けて憲法草案作成に入った。それに対してアメリカ合衆国の国務長官ルーツは1901年2月、8項目にわたる「修正条項」を憲法の付帯事項とするよう要求した。アメリカでは軍事歳出法として同年3月、上下両院を通過した。
 キューバ制憲議会は当初、24対4で否決したが、アメリカは修正条項を受け入れない限り占領軍を撤退させないとしたため、制憲議会は5月28日、キューバ独自に解釈を施すという条件をつけて15対14で可決した。これに対してアメリカは無条件での受け入れを要求したため、制憲議会は最終的には1901年6月12日、16対11で受け入れを決定し、その結果、1902年5月20日にキューバ共和国が発足した。

プラット条項の意味

 このキューバ憲法に盛り込まれた修正条項は、キューバにおけるアメリカ権益を、キューバ国内の反米運動や、ヨーロッパからの干渉から守るために編み出された工夫である。はじめ1901年のアメリカ陸軍予算案に加えられた「プラット修正」として定められたもので、当時の国務長官ルートと上院議員プラットによって構想され、キューバが自らの独立を危うくしたり、領土を割譲するような条約をアメリカ以外の外国と締結することを禁じ、さらにキューバ政府が国民の財産や生命を守れない場合はアメリカが内政干渉する権利を保持し、キューバに石炭補給地と海軍基地を建設する権利も認める、というものであった。つまり、「キューバの独立を守るために、アメリカが内政に干渉する権利を認めさせる」という本質的に矛盾した内容であった。
セオドア=ローズヴェルトの棍棒外交 アメリカ合衆国でプラット条項をキューバに認めさせたのはマッキンリー大統領であったが、彼が1901年9月に暗殺されセオドア=ローズヴェルトが大統領に昇格、そのもとで、1902年5月、このプラット条項(プラット修正)加えたキューバ憲法が成立して正式にキューバ共和国として独立したが、キューバは自らの憲法でアメリカの内政干渉を認めることによって事実上の保護国となった。さらに修正条項は1903年にキューバとの条約として再確認された。この後、セオドア=ローズヴェルトは、アメリカの軍事力を背景とした強圧的な棍棒外交といわれるカリブ海政策を展開していくこととなる。 → パナマパナマ運河

プラット条項の廃止

 その後、キューバの激しい反対が続いたが、アメリカ資本がキューバの砂糖プランテーション、果樹プランテーションに大量に投下されるようになって、そのアメリカ帝国主義にとって不可欠な実質的植民地として、キューバの従属は続いた。
 ようやく第一次世界大戦後、1929年に始まる世界恐慌により、アメリカは植民地政策の見直しに迫られ、フランクリン=ローズヴェルト大統領の「善隣外交」政策の一環として、1934年にこの条項を撤廃した。そのねらいは、キューバに親米的なバティスタ政権が成立し、それによって反米運動を抑えることにあった。しかし、グアンタナモ基地はそのまま残ることとなり、現在まで続いている。

アメリカ=キューバ関係の激変

 1959年にキューバでアメリカ資本主義と結びついているバティスタ独裁政権に対する、カストロなどが蜂起してキューバ革命が勃発し、その後、キューバが急速に社会主義化したためにアメリカとの関係は悪化し、国交が断絶され、キューバ危機となるが、グァンタナモは依然としてアメリカ軍が放棄せず、両国は2015年に国交を回復したが、グァンタナモ基地問題など、未解決の問題を抱えている。

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