パナマ運河
大西洋と太平洋を結ぶ、パナマ地峡に設けられた運河。1881年、フランス人レセップスが建設に着手したが失敗。1903年、アメリカがパナマを強引に独立させ、運河地帯の支配権を獲得し、翌年建設に着手し、1914年に完成させた。1950年代末にパナマで返還運動が強まり、アメリカは1977年の新パナマ条約で返還を約束した。89年にはパナマ侵攻を実行、運河の支配維持を図ったが国際世論の反発が強く、99年に約束通り返還された。
パナマ運河 GoogleMap
スエズ運河に続いて大事業に熱意を持つレセップスは、早くも1879年、パナマ運河会社を発足させ、80年に着工したが、技術的に難航して会社が倒産し、中断された。その再開をめぐって、フランス国内で1892年には第三共和政を揺るがすパナマ事件という汚職事件が起き、フランスによる運河建設は暗礁に乗り上げ、失敗した。
代わって中南米を勢力圏に置くアメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト大統領が1903年にコロンビアに介入してパナマ共和国を独立させて、直後の1903年11月18日にパナマ運河条約を締結して建設権を獲得し、1904年に工事に着工した。さらに10年の難工事の後、1914年8月15日に完成、使用を開始した。
スエズ運河は砂漠の平地に造られ、同じ高さの海面を結んでいる海面式であるが、パナマ運河は一部の湖を利用しているが、内陸に最高地点海抜26mの山があるので、運河を階段状につなげる閘門式をとっている。その分だけ難工事であった。
レセップスの着手と失敗
世界の船舶が帆船から蒸気船への移行が進んだ1870年代、スエズ運河がようやく黒字に転換し、運河の有効性が高まったのを受けて、大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設計画がもちあがった。1876年、国際地理学会はレセップスを委員長とする両洋間運河開鑿委員会を設置し、78年にコロンビア政府より開鑿権を得た。79年、レセップスを代表とするパナマ運河会社が設立され、80年に工事が開始された。レセップスは、スエズと同じ水平式で可能と考えたが、両洋の水位の違いが大きく、途中から閘門式に切り替えた。閘門の工事技術者としてエッフェル塔を成功させたエッフェルが招聘された。パナマ事件 しかし熱帯雨林が工事の進捗を阻害したこともあって工事費が当初予想をはるかに上回ることとなった。レセップスはフランス国内で富くじを発行して資金を得ようとしたが売れ行きが悪く、結局資金繰りに失敗することとなり、ついに89年にはスエズ運河会社が破産し、工事は中断されることとなった。翌年、フランスで運河会社の富くじ発行にからむ贈収賄事件が明るみに出、いわゆるフランス政界を揺るがしたパナマ事件となり、レセップス親子が有罪となってフランスによるパナマ運河建設は完全に挫折した。<大佛次郎『パナマ事件』1959 朝日新聞社 大佛次郎ノンフィクション文庫 9>
アメリカによるパナマ運河の開削
1849年にゴールド=ラッシュが本格化すると、アメリカでは船でパナマに行き、最も狭い地峡(最短で51キロ)を鉄道で横断して、太平洋側を船で北上するというルートで西海岸に到達することを考えるようになった。そこで、パナマ地峡の鉄道建設に着手し、現地人や中国人(クーリー)を酷使し「最も短い大陸横断鉄道」を完成させた。この鉄道は後にパナマ運河をアメリカが建設する際に大いに役立った。ただしアメリカは、運河については当初、パナマでなく、内陸に湖があるニカラグアに着目し、南北戦争後にはニカラグア運河を建設することを決めた。しかし、この工事は難航し、開通の目処は立たなかった。まぼろしのニカラグア運河 アメリカ帝国主義は1898年の米西戦争のとき、大西洋側にいた軍艦をフィリピン攻撃のため太平洋側に回航させようとして南米大陸を廻り、90日間かかってしまったことを機に、運河建設の気運が高まった。アメリカが当初計画したニカラグアでの運河開鑿は、1902年にニカラグアで火山噴火が相次いだことから計画を変更し、レセップスが放棄したパナマ運河の建設権を継承して工事を再開することに転換して、2億フランでフランスからその権利を買い取った。
アメリカの強引なパナマ独立工作 しかし、コロンビア議会がアメリカの建設権を認めなかったので、アメリカはパナマ地域のコロンビアからの独立運動を軍事支援して、1903年にパナマ共和国を強引に独立させた。 → アメリカの外交政策
アメリカ=パナマ間のパナマ運河条約
1903年11月にパナマ共和国の独立宣言のわずか2日後にアメリカ政府はパナマ新政府を承認、さらに13日後の1903年11月18日にパナマ運河条約に調印した。パナマ運河条約は、第1条でアメリカがパナマの独立を保障すると定め、事実上パナマがアメリカの保護国であると明言している。第2条は10マイル幅の運河地帯、および運河の関連事業にアメリカが必要だと考える地域は永久にアメリカの支配下にある(永久租借権)と認めた。第3条では運河地帯の主権がアメリカにあることを確認し、パナマの主権は排除すると明記している。このように、パナマ運河条約は、パナマのアメリカへの実質的属国化を定めたものであった。
セオドア=ローズヴェルトの棍棒外交 条約締結にあたって、コロンビア軍の反撃と民衆の抵抗が予測されたので、セオドア=ローズヴェルトは軍艦をパナマ沖に派遣して圧力をかけた。さらに、パナマ軍を解体して国家警備隊に縮小し、1904年のパナマ憲法には、パナマの国内政治の安定のためにアメリカが軍事介入できるという条項を盛り込ませた。このようなセオドア=ローズヴェルトの軍事力を背景にしたカリブ海域への強硬手段は、棍棒外交と言われた。
Episode 売国奴と言われた初代大統領
パナマのアマドール新大統領はさすがにこのような不平等条約には抵抗した。アマドールは交渉のためアメリカに赴いたが、パナマの駐米大使バリーヤ(フランス人技師)は留守政府に電報を送り、至急批准しなければアメリカはパナマ独立承認を取り消すと脅したため、留守政府は条約を批准してしまった。アメリカの新聞はアマドールがセオドア=ローズヴェルト大統領から巨額の金を稼いだと報道したため、アマドールは初代大統領でありながら売国奴とも呼ばれている。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.87>パナマ運河の完成
アメリカはパナマ条約締結の翌1904年9月29日、パナマ運河の本格的開削工事に着手、開始から10年後の1914年8月15日に完成した。これによってニューヨーク=サンフランシスコ間を1万5000キロ縮めて、アメリカ産業にとって重要性が強まっていた。この年は第一次世界大戦勃発の年であり、アメリカはその戦争でもパナマ運河が大きく役立った。その後、アメリカは軍隊を駐屯させ、パナマを事実上支配し、その世界戦略の要としていた。Episode パナマ運河建設に参加した日本人
1904年、パナマ運河の開削が始まったとき、一人の日本人技術者が参加していた。青山士(あきら)。前年に東京帝国大学土木工学科を卒業し、新しい技術を身につけようとパナマ運河掘削工事に参加した。測量のポール持ちから始め、有色人種としては異例の設計技師に採用された。青山は運河完成の2年後に帰国し、荒川の改修工事に参加した。1910年の大洪水では東京に浸水家屋27万戸、被災者150万をだした荒川の治水は東京府の大事業であり、青山の新知識が活用されて荒川放水路が完成した。現在、荒川知水資料館はパナマ運河博物館と姉妹提携をしている。<山本厚子『パナマから消えた日本人』1991 山手書房新社 p.73-84/吉岡逸夫『平和憲法を持つ三つの国―パナマ・コスタリカ・日本』2007 明石書店 p.91>アメリカのアジア進出
第一次世界大戦前のアメリカは中国進出に後れをとり、1899年に門戸開放宣言を主張したにとどまっていた。その間、日露戦争後は日本が大陸への進出を活発にしたため、アメリカも神経をとがらせていた。そのような中、1914年にパナマ運河が開通したことは、アメリカの太平洋方面、さらに中国大陸への関心を強めることとなり、ワシントン会議を経て、1920年代のワシントン体制での日本との対立の結びついている。 → アメリカの外交政策F=ローズヴェルトの善隣外交
アメリカによるパナマ運河地帯の支配に対するパナマ人の不満は次第に高まっていった。1925年には初めて反米暴動が起こり、アメリカ政府も対応を迫られ、善隣外交を掲げたフランクリン=ローズヴェルト大統領は、パナマとの交渉に応じて、1936年には運河地帯の本来的主権がパナマにあることを認めた。 → アメリカの外交政策太平洋戦争とパナマ運河
日本の中国・東南アジア進出はアメリカを刺激し、日米関係の緊張が高まると、アメリカは口実を設けてパナマ運河の日本船通過を禁止した。アメリカ海軍を大西洋側の拠点から太平洋方面に移動させるためのパナマ運河の戦略的な重要性が増すこととなり、アメリカは運河防衛を最重要課題とした。1941年12月7日(アメリカ時間)、日本軍の真珠湾攻撃が開始され太平洋戦争が勃発すると、ワシントンのセオドア=ロースヴェルト大統領は「パナマ運河は無事なのか」と尋ねた。ただちにパナマ運河地帯のアメリカ軍に指令が飛び、パナマ議会も日本に宣戦布告、パナマ官憲と米軍によってパナマ在住日本人238人はは拘束され、さらにコスタリカ在住の日本人も加えられ、バルボア市の収容所にに収容された後、アメリカ船でアメリカ本土の収容所に送られた。こうしてパナマ在住の日本人忽然と姿を消した。<山本厚子『パナマから消えた日本人』1991 山手書房新社 p.149-161>
Episode 日本潜水艦のパナマ運河爆破計画
日本海軍は実際にパナマ運河攻撃作戦を立案していた。それは「潜水空母」でパナマ運河に近づき、浮上して格納していた飛行機を艦上で組み立て、発進して空襲するという大胆な作戦であった。そのため建造された伊四〇〇と伊四〇一は、全長122m、幅12m、排水量3445トンで攻撃機3台を収容できる。これは1959年にアメリカの原子力潜水艦トライトンが建造されるまで世界最大の潜水艦だった。1944年12月から翌年1月にかけて二隻の潜水空母が完成、攻撃機「晴嵐」を搭載して第一潜水隊を編成、能登の七尾湾で訓練を続け出撃の機会を探り、当初はニューヨーク、ワシントンの攻撃も検討されたが45年3月に「パナマ運河爆破計画」に変更された。それはすでにドイツの敗色が濃厚となり、欧州戦線が終結すればアメリカの艦隊がパナマ運河を経由して太平洋に向かうことが予想されたからであった。パナマ運河爆撃にそなえ、海軍は運河建設に参加した青山士に運河の図面の提供を求めたが、青山は「わたしは造ることは知っているが、壊し方は知らない」と答えたという。
結局、6月に沖縄戦が始まり、伊四〇〇、伊四〇一もその救援作戦に向かうこととなった。出撃予定は8月25日とされたが、出撃前に敗戦となり、実戦に参加することなく「まぼろしの潜水空母」に終わった。なお横須賀の母港に戻った二隻はアメリカ軍の徹底的な調査を受けた後、翌年5月と6月に海に沈められた。<山本厚子『同上書』 p.183-189>
新パナマ運河条約
第二次世界大戦後も、さらにパナマの反米運動が続き、特に1956年にスエズ運河国有化が実現したことから、パナマにおいても全面返還を求める声が強まった。1968年にはパナマでクーデターによって権力を握ったトリホス将軍は民族主義を前面に押しだして、国際世論に運河返還を訴え、アメリカで共和党政権から代わった民主党政権のカーター大統領のもとで1977年9月に、アメリカ・パナマ間の新パナマ運河条約(パナマ運河返還条約)が成立、1999年までにアメリカの主権を終了させ、パナマに返還することが約束された。Episode 1票差で批准された新パナマ運河条約
カーター大統領がパナマ共和国との間で運河の返還を約束した条約は、アメリカ国内で共和党を始め、右派や軍の猛反対を受けた。しかしカーターは「米国は他国を支配するのに十分すぎるほど強大だが、対等な相手として威厳と尊敬をもって遇する。それが民主国家として世界中に大きな影響を与えることを可能にする」との信念を崩さなかった。上院での条約批准承認は、必要票数をわずか1票だけ上まわる緊迫した採決だった。歴史家は、もし国民投票だったら批准されなかっただろうと見る。事実、賛成票を投じた議員の大半は再選されなかった。<『朝日新聞』1999/12/9 朝刊>アメリカ軍のパナマ侵攻
しかし、その後、新パナマ条約を締結したパナマのトリホス大統領が事故死してノリエガ将軍に交代すると、アメリカのブッシュ(父)大統領は、ノリエガの軍事政権が反民主主義的で、麻薬密輸などに関与しているという口実を設け、1989年にパナマに侵攻して実力で政権を排除し、パナマ運河支配権を守ろうとした。パナマ運河返還の実現
このようなアメリカの軍事力を背景とした覇権主義は国際世論の反発を受け、また冷戦の終結、ソ連の解体という国際関係の激変のなかで、アメリカはパナマに対する軍事支配の維持をあきらめ、新パナマ運河条約の約束どおりに、1999年12月31日を以てパナマ運河地帯の主権を放棄して、パナマ共和国に返還した。こうしてパナマ運河はパナマ共和国の管理運用下に置かれることになり、独立以来96年で初めて国土の全域に主権が及ぶこととなった。 → パナマ共和国パナマ運河の拡張 パナマ運河は現在、一日平均39隻、年間1万4千隻の船が通過し、その通行料はパナマにとっての大きな収入源となっている。さらに船舶の大型化に対応した運河の拡張が課題となってきた。
2006年10月、運河の通航容量を約2倍に引き上げるためのパナマ運河拡張計画が国民投票で承認された。世界の物流の効率化、運河の近代化を図ることを目的とする総事業費52億ドル、工期予定8年という巨大事業である。実際には2年遅れて2016年に完成した。