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戦後自治の約束(インド)

第一次世界大戦中の1917年8月、イギリスがインドに対して将来の責任政府の実現と自治制度の発展を声明。当事者のインド担当国務大臣の名によりモンタギュー宣言とも言われる。インド側はこれを戦後の独立の約束と受けとったが、その具体案として出された改革では地方政治での自治に留まっていたため不満が大きかった。

 第一次世界大戦を戦う上で、イギリスにとって西アジアでのドイツとの対抗、さらみオスマン帝国がドイツ側についたことから、インドの協力が必要となった。また、インドの人的、物質的資源は不可欠であったので、ただちに戦争に協力させる態勢を採った。しかし、次第に自治要求を強めていたインドでは、自動的に戦争に組み込まれることに対して強い反対が存在した。イギリス政府はそのようなインドの反英闘争を抑え、戦争協力を続けさせるために一定の譲歩が必要と考えた。

モンタギュー宣言

 1917年8月20日、下院においてインド担当国務大臣のモンタギューが「イギリス帝国の構成分子として、インドに責任政府を一歩一歩実現させるべく、自治制度を漸次発展させる」との方針を声明した。次の日にはイギリス政府は、誠意をみせようとすかさず「人種の仕切り線」を取り除き、軍隊に9名のインド人将校を任命することを発表、さらにモンタギューはベサント夫人(イギリス人の神智学者で、インド民族運動の協力者。1916年、ティラクに協力してインド自治連盟を結成したが治安法違反で投獄されていた)ほか2名を釈放した。
 モンタギューの議会での声明は、インドにおいては将来における「責任政府」樹立と「自治制度」を発展させるというもので、「モンタギュー宣言」といわれ、インド側は世界大戦後の独立が約束されたものと解釈した。しかし、声明は曖昧なもので、具体的な独立の確約とは言えないものだった。
 それでもガンディーをはじめとして国民会議派は、イギリス帝国の一員としての義務を果たすことで、戦後の自治権の獲得が可能となると考え、戦争協力に応じた。第一次世界大戦では、200万人以上のインド人が戦地に赴き、他に莫大な額の資金や物資を提供した。

ロシア革命の影響

 さらに、同年10月にロシア革命(第2次)が起こると、あわてたイギリスはモンタギューをインドに派遣しインド統治法の改革に乗り出した。その結果、1919年末にモンタギュー=チェルムスファド改革と言われるインド統治法の改正が行われたが、その内容は統治の機構を中央と地方にわけ、中央政府には自治を許さず、州政庁だけに自治を導入するという不十分なものであり、さらに一方で、それまでのインド防衛法をさらに強化したローラット法を1918年に制定(施行は翌年3月)するなど人権無視の抑圧策をとったので、第一次世界大戦後のガンディーの指導によるインド独立運動がかえって高揚することとなった。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.96-98 など>
 → アムリットサール事件 非暴力・不服従運動(第1次) ガンディー
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