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非協力運動

1919年末、ガンディーが提起したより積極的・大衆的な反英闘争の戦術。非暴力に加え、全面的な対英協力拒否を訴えた。大衆的運動として盛り上がったが、1922年2月、農民が警察署を襲うという暴力事件が起こったため中止された。

 非協力運動 Non-cooperation は、ガンディーが、1919年11月に提唱し、1922年2月頃まで繰り広げられた、インドの反英闘争での大衆的抵抗運動の一つ。
 第一次世界大戦後直後の1919年、ローラット法反対の運動から始まった国民会議派の第1次非暴力・不服従運動は、同年4月に起こったアムリットサール事件によって、いったん停止においやられた。
 イギリスはインドの民衆運動の高揚を抑えるため、ローラット法による弾圧とともに、1919年12月インド統治法を制定(実施は21年)し、一定の地方自治を認めるという妥協を図った。国民会議派にもそれを歓迎するものもあったが主流は不十分な自治には反対の姿勢が強かった。

ヒラーファと運動との連携

 そのころ、一方ではムスリム(イスラーム教徒)のヒラーファト運動(カリフ擁護運動)が盛り上がっていた。ガンディーは、このヒラーファト運動がイギリス帝国主義との対決する論点を含んでいることを見て取り、提携を求めた。1919年11月、デリーで開催された全インド=ヒラーファト大会において、ガンディーは「非協力」という新しい戦術を考えついて提案した。自治を認めようとしないイギリスに対して、それまでのハルタール(同盟休業)や断食といった非暴力の戦いだけではなく、より積極的にイギリスの統治に対する拒否の態度を示すべきである、というものであった。
 ガンディーの非協力運動は、アムリットサール事件の打撃によって停滞していた反英闘争を再び盛り上がらせ、さらにヒラーファと運動と結びつくことで、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協力を実現させた。またこのころから、ジャワハールラル=ネルーチャンドラ=ボースらの若い世代の活動家も生まれ、ガンディーに協力するようになった。

全面的な対イギリス非協力を提起

 さらに翌1920年9月、国民会議派はガンディーの新たな非協力を今後の運動方針として採択した。それは「どんな形にしろ、この悪魔的な政府に協力することは犯罪である」として、従来の政治的協力から非協力への180度の方向転換を決定し、具体的な闘争方針として、(1)イギリスから与えられた称号、名誉職の返還、(2)政府行事への出席拒否、(3)公立学校からの生徒の引き上げ、(4)裁判所のボイコット、(5)軍人・教職員・労働者の海外派兵拒否、(6)1919年インド統治法による選挙のボイコット、(7)外国製品のボイコット、などであった。
 また12月の定期大会では、国民会議派の最終目標を、「イギリス帝国内における自治政府」ではなく、「自治(スワラージ)の達成」に置くこととなった。1920年から21年にかけて、非協力運動は全インドで盛り上がりを見せ、特に手紡ぎ車(チャルカ)をシンボルとした外国綿布排斥は、各地でイギリス製綿織物が山積みにされて焼き払われるなど激しさを見せた。 → イギリスの産業革命とインド

非協力運動の中止

 しかし非協力運動はわずか1年ほどで、屈辱的な撤退を迫られることになった。1922年2月、チャウリ・チャウラという村で農民が警察署を囲んで放火し、22人の警官を殺してしまうという事件が起こったのだ。ガンディーはそれによって、まだインド人民は運動を非暴力で行うには未成熟だ、として運動の中止を命じてしまった。若い国民会議派のメンバーだったネルーは運動中止に反対しガンディーを批判したが、ガンディーは大衆の暴力といえどもそれを認めることはできないとして決断を変えなかった。ガンディー自身も逮捕されたため、この運動は実を結ばず終わった。
注意 ガンディーの反英闘争にはいくつかの用語が用いられているが、この「非協力運動」については現行教科書では取り上げられていない。概説書での説明では、1919年11月から21年の運動としているのが多いが、第一次非暴力・不服従運動の中に加える説明や、ガンディーの運動全体を通しての主張しているものも見られる。そのため混乱しやすいが、通常は1919年末から1922年初めまでの運動と理解して良いだろう。入試問題などで「非協力運動」というワードにぶつかるかもしれないので、世界史用語としての違いをまとめておこう。
 ガンディーの運動は、大まかにまず根幹となるのが非暴力(non-violece)・不服従(civil disobedience)と捉えよう。ガンディー自身はそれをサティヤーグラハ(ガンディー自身の造語で「真理の把握」の意味)といっている。ガンディーの運動全体に共通する理念ともいえるが、運動名としては通常、1919から22年までの第一次と、1930~34年第二次にわける。その第一次はローラット法反対を掲げたハルタール(同盟休業)と、この非協力運動であり、ヒラーファト運動との提携が特徴である。第2次は不服従運動とだけ言われることもあるが、特徴的な闘争手段が「塩の行進」だった。そして最後に、第二次世界大戦中の1942年の「インドから出て行け(Quit India)」の運動が行われる。<辛島昇編『南インド史』p.375/長崎暢子『ガンディー』p.142-144/竹中 などを参照>