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非協力運動

1919年末、ガンディーが提起したより積極的な反英闘争の戦術。非暴力に加え、積極的な対英協力拒否を訴えた。

 1919年、ローラット法反対の運動から始まった国民会議派の第1次非暴力・不服従運動は、さらにガンディーの進めたイスラーム教徒のヒラーファト運動との提携によって、全インド的な大運動となった。その中で、1919年11月、デリーで開催された全インド=ヒラーファト大会において、ガンディーは「非協力」という新しい戦術を考えついて提案した。自治を認めようとしないイギリスに対して、それまでのハルタール(同盟休業)や断食といった非暴力の戦いだけではなく、より積極的にイギリスの統治に対する拒否の態度を示すべきである、というものであった。

全面的な対イギリス非協力を提起

 さらに翌年9月、国民会議派はガンディーの新たな非協力を今後の運動方針として採択した。それは「どんな形にしろ、この悪魔的な政府に協力することは犯罪である」として、従来の政治的協力から非協力への180度の方向転換を決定し、具体的な闘争方針として、(1)イギリスから与えられた称号、名誉職の返還、(2)政府行事への出席拒否、(3)公立学校からの生徒の引き上げ、(4)裁判所のボイコット、(5)軍人・教職員・労働者の海外派兵拒否、(6)1919年統治法による選挙のボイコット、(7)外国製品のボイコット、などであった。
 また12月の定期大会では、国民会議派の最終目標を、「イギリス帝国内における自治政府」ではなく、「自治(スワラージ)の達成」に置くこととなった。1920年から21年にかけて、非協力運動は全インドで盛り上がりを見せ、特に手紡ぎ車(チャルカ)をシンボルとした外国綿布排斥は、各地でイギリス製綿織物が山積みにされて焼き払われるなど激しさを見せた。 → イギリスの産業革命とインド
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