印刷 | 通常画面に戻る |

サウジアラビア王国

イスラーム教改革運動のワッハーブ派を保護したリヤドのサウード家がアラビア半島を統一して建てた国家。第1次(1744頃~1818)・第2次(1823~89)のワッハーブ王国を前身として、1902年にアブドゥルアジズ(イブン=サウード)がリヤドを奪還、1925年までにハーシム家のヒジャーズ王国を滅ぼし、1932年に国号をサウジアラビア王国とした。メッカとメディナの二大聖地を管理し、イスラーム教の盟主を唱え、イスラーム法(シャリーア)の厳格な遵守を掲げている。また世界最大の油田地帯を抑え、国際政治に大きな発言力を有している。

ワッハーブ派とサウード家の提携

サウジアラビア GoogleMap

アラビア半島の80%を占める、日本の5倍以上の面積を持つ国。しかしその国土の90%は砂漠である。人口は約3300万をこえるとされるが、砂漠の遊牧民を正確に数値化することは難しく、正確なところはわからないらしい。民族はアラビア人で、アラビア語を公用語とする。サウジアラビアとは、「サウード家のアラビア」という意味で、半島中央部ネジド地方出身のサウード家を国王とする王制国家。 首都はかつてはリヤドメッカの両市とされていたが、現在はリヤドのみとなっており、国王はリヤドにいる。
 国教はイスラーム教の改革運動から起こったワッハーブ派。現在も祭政一致の原則にたち、サウード家の王権は絶大であり、議会は存在するが立法権はなく、国王の諮問機関にすぎない。社会的には現在も部族の首長たちが今でも大きな力を持っている。中東アラブ系湾岸首長国の一つとして共通した性格を有している。
 サウジアラビア王国の国旗の緑はイスラームで聖なる色とされる。描かれている文字はアラビア語のスルシー体という書体で、「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という意味。

サウジアラビア王国の前史

 現在のサウジアラビア王国となったのは1932年であるが、サウード家の支配する国家の前身であるワッハーブ王国(第1次・第2次)があった。これをあわせて第1次サウード王国ともいい、現在の国家を第2次サウード王国ということもある。サウード家は北部アラビアの有力なアネイザ部族の一支族で18世紀はじめにダルイーヤを拠点に首長国をつくった。
ワッハーブ王国 その首長ムハンマド=イブン=サウードが、18世紀半ばにイブン=アブドゥル=ワッハーブが興したイスラーム教の改革運動であるワッハーブ派(イラン人やトルコ人に広まったスーフィズムを否定し、イスラーム教の純粋な原理を守ることを主張する)の信仰に入り、両者が強く結びついた。1744年ごろ、サウード家が建てた首長国をワッハーブ王国(第一次)といもいい、1803年にはメッカ、翌年にはメディナのイスラーム教の聖地を占領し、さらにシリアやイラクにも進出した。オスマン帝国はそれを倒そうとしてエジプト総督ムハンマド=アリーに討伐を命じ、その結果、1818年にいったん滅ぼされた。その後、1823年にリヤドを都にワッハーブ王国(第2次)が再建されたが、内紛などから1889年に倒れ、サウード家はアラビアでの拠点を失い、クウェートに亡命した。
ヒジャーズのフセインとの抗争 サウード家のイブン=サウードアブドゥルアジズともいう)は、1902年にリヤドを奇襲して奪回し、勢力を回復した。第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国支配下のヒジャーズ地方のメッカの太守ハーシム家フセイン1915年7月14日にフセイン=マクマホン協定を結んでイギリスの支援のもと「アラブの反乱」を開始しヒジャーズ王国の独立を宣言した。一方でイギリスはリヤドのイブン=サウードにも協力を要請、フセインとイブン=サウードは対立しながらもそれぞれイギリスに協力した。
ヒジャーズ=ネジド王国 しかし、第一次世界大戦が終わり、オスマン帝国も滅亡すると両者の対立はアラビア半島の統一をどちらがなしととげるか、という競合となった。イブン=サウードは、ワッハーブ派の信仰で結束するイフワーン軍という部隊を活躍で次々とヒジャーズ軍を破り、ついに1925年までにヒジャーズ王国を滅ぼしてアラビア半島をほぼ統一に成功した。イブン=サウードは、1926年にヒジャーズ王位を兼ねて、ヒジャーズ=ネジド王国を建国した。これが実質的なサウジアラビア王国の建国である。

イブン=サウードの建国事業


サウジアラビア王国の国旗
 イブン=サウードは正式には、1932年9月にサウジアラビア王国の樹立を宣言した。その後も第二次世界大戦後の1953年まで、アラブ世界のリーダーの一人として強力な指導力を発揮した。その権力の基盤はワッハーブ派の信仰に支えられた宗教的な権威であったが、次第にアラビア半島の石油資源を抑える君主として、その莫大な資産を背景に、絶大な権力を振るうようになった。

アメリカとの提携

 1938年に石油の油田が発見されて以来、採掘権はアメリカの国際石油資本に支配されててきた。第二次世界大戦でもアメリカの世界戦略上もサウジアラビアとの結びつきを強めることに努め、1945年にはアメリカ大統領F=ローズヴェルトはヤルタ会談からの帰国途中に、アメリカ軍艦上でアブドゥルアジース国王と会談し、それをもとに1951年にはダーラン空軍基地の使用を含めた両国の軍事協力を定めた相互防衛援助協定が締結された。

石油大国サウジアラビア

 現在では広大な油田を国営として豊かな経済力を持つ経済大国となっている。1960年の石油輸出国機構(OPEC)の創設はサウジアラビアが中心とり、その後もアラブ石油輸出国機構を創設した。
 ファイサル国王(在位1964~75)の時期にはエジプトのナセルに代わってアラブ世界の盟主としての役割も担い、基本姿勢では反共産主義・親アメリカ路線を守った。しかし、イスラエルの存在には強く反発し、第4次中東戦争の際の親イスラエル国家への石油輸出禁止などの石油戦略を先導した。
 国内では教育や文化の近代化を進めたが、議会政治への転換などは図られておらず、依然として国王の絶対権力のもとにおかれている。しかし、最近は経済、国防などの面では実務的な官僚(テクノクラート)が成長し、国を動かしているとも言われる。さらに女性の地位の向上など民主化の実現が要請されている。
 1991年の湾岸戦争では一貫してアメリカに協力し、その基地を提供したことから、それに反発したイスラーム原理主義のビン=ラーディンらテロリストも出現し、世界最大の不安定要因がつくり出された。2001年の9.11同時多発テロの首謀者とされるビン=ラーディンは、聖地であるサウジアラビアの地が湾岸戦争でアメリカ軍に汚されたことをその動機に挙げている。その後のイラク戦争でも、サウジアラビアは親米政策を続けている。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

森伸生
『サウディアラビア 二聖都の守護者』
イスラームを知る19
2014 山川出版社
小山茂樹
『サウジアラビア―岐路に立つイスラームの盟主』
1994 中公新書

岡倉徹志
『サウジアラビア現代史』
2000 文春新書

保坂修司
『サウジアラビア―変わりゆく石油王国』
2005 岩波新書