第4次中東戦争/ヨム=キプール戦争
1973年10月、エジプトとシリアがイスラエル軍を奇襲攻撃。緒戦は勝利したが、イスラエルの反撃を受け、それを支援するためにアラブ諸国が石油戦略を採り、石油価格が急騰するなど大きな影響を与えた。ユダヤ教の贖罪日であるヨム・キプールの10月6日に始まったのでイスラエルではヨム・キプール戦争、アラブ側では十月戦争という。アラブ側にはソ連、イスライル側にはアメリカがあり、代理戦争という側面があった。戦車、ミサイルを主体とした、第二次世界大戦後最大の機械化された戦争であったが、アメリカ(キッシンジャー外交)の仲介により、イスラエルがシナイ半島、ゴラン高原などを実効支配を続けるという有利な条件で講和した。この戦争はアラブ諸国が協力してイスラエルと戦うという中東戦争の最後となった。
1973年10月6日に起こった、パレスチナをめぐる、4次にわたるアラブ諸国とイスラエルの中東戦争の最後となった、大規模軍事衝突。それ以後は大規模衝突は回避されているが、軍事的緊張は依然として続いており、問題は解決していない。 → パレスチナ問題/中東問題(1940~60年代)
1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。エジプト大統領サダトの主導した奇襲作戦は成功を収め、中東戦争で初めてアラブ側が勝利を占めたかに見えた。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。
十月戦争、ラマダン戦争、ヨム=キプール戦争 アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。<戦争の詳細は、ハイム ヘルツォーグ/滝川義人訳『図解中東戦争:イスラエル建国からレバノン進攻まで』原書房 を参照>
イスラエル軍の反撃 イスラエルは劣勢を挽回するために核兵器の使用と検討した。しかし、徐々に戦車戦での優位を取り戻し、ゴラン高原でのシリア軍、シナイ半島でのエジプト軍を押し返していった。特にシナイ半島中央部に進出したエジプト軍は、イスラエル空軍・戦車部隊によって進撃を止められ、逆にスエズ運河まで追いつめられてイスラエル軍が運河を越えて侵攻した。早くも19日にはサダト大統領はソ連に停戦の仲介を依頼した。ソ連のブレジネフ書記長はワシントン駐在の大使を通じて国務長官キッシンジャーとの折衝に入った。
キッシンジャー外交の展開 世界はアラブ諸国が打ち出した石油の生産・輸出制限によってパニック(第1次石油危機)が起こり、停戦を望む声が強まっていた。当時アメリカはニクソンがウォーターゲート事件の最中で、大統領が機能しない状態だったため、交渉はキッシンジャー一身に委ねられた。翌20日、だだちにモスクワに飛んだキッシンジャーはブレジネフとの話し合いに入り、双方とも停戦を当事国に同意させることで一致、国連安保理での協議が終わるまで9時間の猶予を見ることになった。しかし、イスラエルもアラブ側も停戦前に有利な状況を作ろうとして戦闘行為をやめず、ソ連もエジプト救援のための艦隊の地中海派遣をほのめかした。ワシントンに戻ったキッシンジャーはニクソンの判断を仰ごうとするが、ニクソンは自分への弾劾決議が出されそうなことで頭がいっぱいで、普段飲めない酒を無理に飲んで寝てしまっており、ヘイグ補佐官も大統領を起こせない、というのでやむなくキッシンジャーは一人で判断しなければならなかった。
停戦の実現 ソ連の動きに対応するため25日午前0時20分、第82空挺部隊に待機を命じ、大西洋の空母J.F.ケネディを中核とする機動艦隊に東地中海へ異動を命じた。大陸間弾道弾の発射も準備された。同日5時、キッシンジャーはブレジネフ宛に電報を送り、ソ連の単独行動は認められない、としながらも文面は極力穏やかに抑え、停戦の実現を匂わせた。クレムリンのブレジネフも、エジプトのサダトにこれ以上の軍事行動をとれば、エジプトの存亡に関わることを説得したと思われる。アメリカもイスラエルの軍事行動を停止することを説得し、国連安保理の決議にしたがい占領地域からの撤退することに合意させた。イスラエルの条件はエジプトと直接協議すること(それまでイスラエルの存在を認めていなかったエジプトは直接協議を拒否していた)、エジプトは停戦の完全実施とイスラエル軍に包囲されているエジプト第3軍への糧食の補給を保障することなどを条件に、28日午後1時、双方の代表が握手して停戦が実現した。
戦車戦主体の戦争へ こうして一時は核戦争、米ソの直接対決の可能性があった戦争はぎりぎりで回避された。19日間のヨム=キプール戦争でのイスラエル軍側の死者は2656人、負傷者は7250人、アラブ側は推定で死者8525人、負傷者1万9540人とされている。開戦後の1週間でイスラエル・アラブ双方が失った戦車の数は、ヨーロッパに駐在するアメリカ軍の戦車の数を上回った。第二次世界大戦では、戦車は平均して700m弱の距離で戦ったが、ヨム=キプール戦争では、2000~3000mの距離で戦った。武器の射程と威力が大きくなり、陸上戦闘での戦車戦のありかたも大きく変わったことを示していた。<長谷部恭男『戦争と法』p.91-107>
サダトの奇襲作戦成功
ナセルに代わってエジプトの大統領となったサダトは、国号をエジプト=アラブ共和国に改めると共に、第3次中東戦争で奪われたシナイ半島などの奪還をめざし、軍備増強を密かに進めた。1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。エジプト大統領サダトの主導した奇襲作戦は成功を収め、中東戦争で初めてアラブ側が勝利を占めたかに見えた。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。
十月戦争、ラマダン戦争、ヨム=キプール戦争 アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。<戦争の詳細は、ハイム ヘルツォーグ/滝川義人訳『図解中東戦争:イスラエル建国からレバノン進攻まで』原書房 を参照>
ヨム=キプール戦争
イスラエルは第3次中東戦争まで優位な戦いを進め、ゴラン高原、ヨルダン川西岸、スエズ運河に及ぶシナイ半島を実効支配するところまでいった。その戦力はセンチュリオン戦車を主力としたアメリカ軍の支援を受けた機甲部隊(戦車部隊)であり、アラブ諸国が攻撃を仕掛けるのは自殺行為といわれていた。ところが1973年10月6日、エジプトとシリアによる南北からの奇襲を受けると予想外に劣勢となり、後退を余儀なくされた。メイア首相とダヤン国防相、諜報部は攻撃を予測できず、戦後に首相はその責任をとって辞任している。またイスラエル軍の緒戦の敗北は、戦線が本国から離れて伸びきっていたこと、アラブ側がソ連製の対戦車兵器(RPG-7という対戦車擲弾発射装置とサッガーと呼ばれる遠隔操作の誘導型対戦車ミサイル)を装備していたことも挙げられる。この戦争は、国際政治だけでなく軍備の面でもアメリカとソ連の代理戦争という側面が強かった。イスラエル軍の反撃 イスラエルは劣勢を挽回するために核兵器の使用と検討した。しかし、徐々に戦車戦での優位を取り戻し、ゴラン高原でのシリア軍、シナイ半島でのエジプト軍を押し返していった。特にシナイ半島中央部に進出したエジプト軍は、イスラエル空軍・戦車部隊によって進撃を止められ、逆にスエズ運河まで追いつめられてイスラエル軍が運河を越えて侵攻した。早くも19日にはサダト大統領はソ連に停戦の仲介を依頼した。ソ連のブレジネフ書記長はワシントン駐在の大使を通じて国務長官キッシンジャーとの折衝に入った。
キッシンジャー外交の展開 世界はアラブ諸国が打ち出した石油の生産・輸出制限によってパニック(第1次石油危機)が起こり、停戦を望む声が強まっていた。当時アメリカはニクソンがウォーターゲート事件の最中で、大統領が機能しない状態だったため、交渉はキッシンジャー一身に委ねられた。翌20日、だだちにモスクワに飛んだキッシンジャーはブレジネフとの話し合いに入り、双方とも停戦を当事国に同意させることで一致、国連安保理での協議が終わるまで9時間の猶予を見ることになった。しかし、イスラエルもアラブ側も停戦前に有利な状況を作ろうとして戦闘行為をやめず、ソ連もエジプト救援のための艦隊の地中海派遣をほのめかした。ワシントンに戻ったキッシンジャーはニクソンの判断を仰ごうとするが、ニクソンは自分への弾劾決議が出されそうなことで頭がいっぱいで、普段飲めない酒を無理に飲んで寝てしまっており、ヘイグ補佐官も大統領を起こせない、というのでやむなくキッシンジャーは一人で判断しなければならなかった。
停戦の実現 ソ連の動きに対応するため25日午前0時20分、第82空挺部隊に待機を命じ、大西洋の空母J.F.ケネディを中核とする機動艦隊に東地中海へ異動を命じた。大陸間弾道弾の発射も準備された。同日5時、キッシンジャーはブレジネフ宛に電報を送り、ソ連の単独行動は認められない、としながらも文面は極力穏やかに抑え、停戦の実現を匂わせた。クレムリンのブレジネフも、エジプトのサダトにこれ以上の軍事行動をとれば、エジプトの存亡に関わることを説得したと思われる。アメリカもイスラエルの軍事行動を停止することを説得し、国連安保理の決議にしたがい占領地域からの撤退することに合意させた。イスラエルの条件はエジプトと直接協議すること(それまでイスラエルの存在を認めていなかったエジプトは直接協議を拒否していた)、エジプトは停戦の完全実施とイスラエル軍に包囲されているエジプト第3軍への糧食の補給を保障することなどを条件に、28日午後1時、双方の代表が握手して停戦が実現した。
戦車戦主体の戦争へ こうして一時は核戦争、米ソの直接対決の可能性があった戦争はぎりぎりで回避された。19日間のヨム=キプール戦争でのイスラエル軍側の死者は2656人、負傷者は7250人、アラブ側は推定で死者8525人、負傷者1万9540人とされている。開戦後の1週間でイスラエル・アラブ双方が失った戦車の数は、ヨーロッパに駐在するアメリカ軍の戦車の数を上回った。第二次世界大戦では、戦車は平均して700m弱の距離で戦ったが、ヨム=キプール戦争では、2000~3000mの距離で戦った。武器の射程と威力が大きくなり、陸上戦闘での戦車戦のありかたも大きく変わったことを示していた。<長谷部恭男『戦争と法』p.91-107>
アラブ諸国の石油戦略発動
この戦争でイスラエル軍不敗の神話が崩れ、エジプト大統領サダトはこれを有利な材料としてシナイ半島の返還をイスラエルに迫った。またサウジアラビアをはじめとするアラブ諸国の産油国の組織であるアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエル支援国に対するアラブ原油の販売停止又は制限をするという石油戦略をとり、さらに石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を4倍にすることを声明した。これはイスラエルを支援する欧米や日本に大きな打撃を与え、第1次石油危機(オイル=ショック)と言われている。中東戦争後の情勢
第4次中東戦争においてはエジプトは緒戦で勝利を収め、また国際政治では石油戦略によって優位に立って停戦に持ち込んだが、シナイ半島をただちに奪還することはできなかった。また4次にわたる中東戦争はエジプト財政を大きく圧迫し、サダト大統領は方針転換を迫られた。経済再建にはアメリカ資本の支援が必要と考えたが、その障害となるのがイスラエル敵視政策であったので、サダトは密かにその転換を図った。ついに1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し、対等な交渉相手として和平交渉に入ることを表明した。ついで翌78年、アメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平を実現した。これによってエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係は解消され、焦点はパレスチナ=ゲリラをひきいて反イスラエル闘争を展開するパレスチナ解放機構(PLO)の動きに移っていった。 → パレスチナ問題/中東問題(1970年代)