第1次石油危機/オイル=ショック
1973年、第4次中東戦争でアラブ産油国が石油輸出を停止したため、原油価格が高騰し、世界に衝撃を与えた。
石油ショック、オイル=ショックともいう。1973年10月6日、第4次中東戦争の勃発に伴うアラブ産油国(OAPEC)が、同年1973年10月17日に石油公示価格の引き上げを宣言した。引き続いてアラブ産油国諸国は中東戦争でのアラブ側の支援のため、イスラエルとの関係の強い国々に対する石油禁輸措置を含む厳しい石油戦略打ち出した。
これによって世界の石油価格が高騰し、世界経済に大きな衝撃を与え、石油危機(オイル=ショック)といわれた。それまで安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国は一気に燃料不足、原料不足に陥り、生産が低下して急激な物価上昇となった。この石油戦略は1974年春には完全に撤廃され、石油供給に関する危機も急速に薄らいだが、同年の変動相場制への移行と共に、第二次世界大戦後の世界経済の構造を一変させることとなった。 → 石油 第2次石油危機
日本経済 にも大きな打撃となり、これを契機として高度経済成長を終わらせ、低成長期にはいることとなった。
10月、OAPECが、親イスラエル政策を採る諸国に対する石油輸出の制限を発表すると、日本政府(田中角栄内閣)は大きな衝撃を受けた。日本も親イスラエル国家に加えられていたので、禁輸リストにのせられていたのである。そこで政府は急きょ、二階堂官房長官の談話として、イスラエル軍の占領地からの撤退とパレスチナ人の人権への配慮を声明した。これはアメリカのユダヤ系勢力の反発が予想されたが、石油禁輸の事態を避けるためにやむなく踏み切った。また12月には三木武夫副総理を特使としてサウジアラビア、エジプト、シリアなどアラブ諸国に派遣し、禁輸リストからの除外を要請した。これらの外交努力により、日本は結果的には禁輸国リストからはずされた。
トイレットペーパー騒動 国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。実際には第4次中東戦争も間もなく停戦となり、原油輸入量も回復するが、原油価格の高騰は続いたので、政府は国を挙げて「省エネ」を国民に呼びかけた。例えばガソリンスタンドの日曜営業の停止やテレビの深夜放送の停止、ネオンサインを消す、マイカーの自粛などなどに及び、国民は深刻に受け止めて協力した。その結果、日本はエネルギー消費抑制に成功し、また省エネにつながる技術革新に務め、危機を乗り切った。<中村隆英『昭和史』1993 東洋経済 p.589-596>
これによって世界の石油価格が高騰し、世界経済に大きな衝撃を与え、石油危機(オイル=ショック)といわれた。それまで安価なアラブ原油に依存していた西側先進工業国は一気に燃料不足、原料不足に陥り、生産が低下して急激な物価上昇となった。この石油戦略は1974年春には完全に撤廃され、石油供給に関する危機も急速に薄らいだが、同年の変動相場制への移行と共に、第二次世界大戦後の世界経済の構造を一変させることとなった。 → 石油 第2次石油危機
第4次中東戦争
1973年10月6日にエジプト軍とシリア軍が南北からイスラエル占領地を攻撃し、第4次中東戦争が始まった。しかし、イスラエル軍が反撃し、10月8日には南ではカイロに迫り、北ではゴラン高原を再占領した。直ちに国連の調停作業が始まり、10月23日に休戦協定が成立し、シナイ半島のイスラエルの占領、ゴラン高原には国連平和維持軍(PKF)の駐留が決まった。この間、サウジアラビアを初めとするアラブ諸国は、石油戦略を展開してイスラエル及びその支持国に圧力をかけた。石油戦略の発動
まず10月17日、石油輸出国機構(OPEC)の中東6カ国は原油の公示価格をバレル当たり約3ドルから5ドル強へ、一挙に70%も引き上げた。さらにその翌日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はアメリカとオランダなど親イスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言し、世界を震撼させた。この石油戦略を主導したのはサウジアラビアのファイサル国王とヤマニ石油相であった。サウジアラビアは当時、親米的であったが、第3次中東戦争(1967年)以来のイスラエルのシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川左岸などの占領が続いていることに対するアラブ側の不満が高まっていることを無視できず、アラブ諸国の唯一の優位な力である産油国であることを生かし、イスラエルとアメリカに圧力をかけて、有利な休戦条件に持ち込もうとしたのであった。10月23日に休戦協定が成立したが、イスラエル軍の占領地からの撤退は実現せず、その後も石油戦略は継続され、12月22日にはOPECの中東湾岸6カ国は、74年1月1日から原油の公示価格を130%引き上げ、バレル当たり11ドル65セントとすることを決めた。国際石油資本の退場
この決定について国際石油資本(メジャーズ)には何の相談もなく、またそれ以降も原油価格でメジャーズは二度と相談されることはなかった。「セブン・シスターズの時代は、かくて石油の禁輸という混乱のさなか、あっけなく終わってしまうのである。」<瀬木耿太郎『石油を支配する者』1988 岩波新書 p.112>石油危機の影響
それまで安価な中東の原油に依存していたアメリカ合衆国を初めとする先進工業国諸国は大きな打撃を受けた。また1971年のドル=ショックによって、アメリカ合衆国の経済力を背景としたブレトン=ウッズ体制が維持できなくなっていたこともあり、アメリカ合衆国の国際秩序は大きく転換することとなった。それは、1973年1月にイギリスなどがヨーロッパ共同体に参加して「拡大EC」となっていたが、さらに1975年に第1回の先進国首脳会議(サミット)が開催されたことにあらわれており、米ソ二大国を軸とした冷戦構造が転換するきっかけとなったと言うことができる。 → アメリカの外交政策アラブ諸国の変質
なお、アラブ諸国にとっては、石油戦略という資源ナショナリズムを全面に打ち出してイスラエルと対決する構図は、社会主義路線による統一を目指すというナセル以来のアラブの戦略が終わりを告げたことを意味しており、サダト大統領のエジプトに見られるような資本主義化が顕著になっていく。その亀裂から、台頭したのがイスラーム原理主義の勢力であった。石油危機と日本
また中東の石油にエネルギー源を依存する10月、OAPECが、親イスラエル政策を採る諸国に対する石油輸出の制限を発表すると、日本政府(田中角栄内閣)は大きな衝撃を受けた。日本も親イスラエル国家に加えられていたので、禁輸リストにのせられていたのである。そこで政府は急きょ、二階堂官房長官の談話として、イスラエル軍の占領地からの撤退とパレスチナ人の人権への配慮を声明した。これはアメリカのユダヤ系勢力の反発が予想されたが、石油禁輸の事態を避けるためにやむなく踏み切った。また12月には三木武夫副総理を特使としてサウジアラビア、エジプト、シリアなどアラブ諸国に派遣し、禁輸リストからの除外を要請した。これらの外交努力により、日本は結果的には禁輸国リストからはずされた。
トイレットペーパー騒動 国内ではマスコミも連日、石油資源の不足の危機を報道したので、11月には消費者がスーパーに押しかけてトイレットペーパーを買いだめするなどの大騒ぎとなった。実際には品不足ではなかったのだが、マスコミと口コミによる情報に多くの人が踊らされることになった。実際には第4次中東戦争も間もなく停戦となり、原油輸入量も回復するが、原油価格の高騰は続いたので、政府は国を挙げて「省エネ」を国民に呼びかけた。例えばガソリンスタンドの日曜営業の停止やテレビの深夜放送の停止、ネオンサインを消す、マイカーの自粛などなどに及び、国民は深刻に受け止めて協力した。その結果、日本はエネルギー消費抑制に成功し、また省エネにつながる技術革新に務め、危機を乗り切った。<中村隆英『昭和史』1993 東洋経済 p.589-596>