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フェニキア人

東地中海岸で海上貿易に活躍したセム語族の一つ。アルファベットのもととなったフェニキア文字をつくった。地中海世界でカルタゴなどの多くの植民市を建設した。

 フェニキア人はセム語系であるが、単一の民族と言うより、東地中海岸の現在のレバノンのあたりを拠点に地中海方面に海上貿易に従事していた集団であった。古くは前15~前14世紀頃に栄えたウガリトもフェニキア人つくった都市らしいが、これは前12世紀に「海の民」の攻撃によって滅ぼされたと考えられる。

フェニキア人

(引用)そもそもフェニキア人という名称自体、彼らが自らを指して呼んだものではない。ホメロスの作品に見られるように、ギリシア人が、東方(オリエント)から主に通商を目的として西方(ギリシア世界)にやってきた人々を「フェニキア人」と呼んだのである。「フォイニクス」つまりギリシア語でフェニキア人を表す言葉の意味は、彼らの特産品でもあった赤紫の染料に由来すると言われる。<佐藤育子「フェニキアの台頭」『通商国家カルタゴ』攻防の世界史 2009 講談社 後、2016 講談社学術文庫 p.37>
参考 青銅器時代のカナン人から鉄器時代のフェニキア人へ
(引用)青銅器時代のカナン人を母体としつつ、新しくこの地に到来した「海の民」との接触により影響を受け、またイスラエル人との軋轢のなかで、海の彼方へと積極的に乗り出していく、いや乗り出して行かざるをえなかった人々、つまりカナン人からフェニキア人への変容が感じられる。領土の縮小やそれにともなう人口圧など様々な条件が重なったことは当然であろうが、この時期のオリエントの大国の沈黙も、彼らの海外発展にとって有利に働いたに違いない。<佐藤育子『同上書』 p.38>

東地中海世界の新たな動き

 前12世紀の海の民の侵入にともなって小アジアのヒッタイト帝国と、エジプトの新王国の二大国が滅亡したことによって、東地中海世界でその両国に支配されていたフェニキア人、イスラエル人が自立することができた。フェニキア人は前11世紀中頃、アルファベットの元となるフェニキア文字を考案、イスラエル人(ヘブライ人、ユダヤ人と同じ)は一神教宗教を創始するなど、いずれも重要な役割を果たした。

アルファベットの考案

 彼らは活発な交易活動に便利なように、後のアルファベットのもとになる線状文字であるフェニキア文字を作り出した。この文字体系はすでに、前2000年紀中ごろのカナーンおよびシナイ半島に始まったが、その段階では小計的要素が強く残る戦場文字であった。この書記のアルファベットは文字数も27個から30個と多く、文字を書く方向も右から左、左から右、あるいは行ごとに交互に書く牛耕式とまちまちで一定せず、さらには縦書きさえあった。それをフェニキア人は、前11世紀の中ごろ、文字数22個の子音文字からなり、右から左への横書きという北西セム語の線状アルファベットとしてのフェニキア文字完成させた。<佐藤育子『同上書』 p.41>
 フェニキア人の作ったアルファベットは、子音を表すだけであったので、後にギリシア人が母音を加えて、現在のようなアルファベットになった。この完成された形のアルファベットは、フェニキア人の交易活動の広がりと共に、地中海世界に広がっていった。(ただし、アルファベットの伝搬者ではあったが、彼ら自身が書き記した文献資料は発見されていない。)

フェニキア人の興亡

 前1200年頃の海の民の侵入によって、青銅器文明段階の都市ウガリトが滅ぼされたため、フェニキア人は東地中海海岸を南に移り、ビュブロス、シドンティルス(テュロス)やベリュトス(現在のベイルート)などに都市を築き、地中海の貿易活動に進出するようになった。彼らの輸出品は特産であるレバノン杉といわれる杉材で、中東では森林が少なかったため、エジプトなどでも貴重な建築材としてフェニキア人の主要な交易品となった。レバノン杉は現在のレバノン国旗の図柄に描かれている。フェニキア人はさらに地中海各地に交易の基地を設け、特に銀や錫などの鉱物資源を獲得し、本国にもたらすようになり、それらの基地は次第にフェニキア人の植民市とされるようになっていった。
 フェニキア人の諸都市でははじめはシドンが有力であったが、次第にティルスが優位となって行き、前11世紀後半には地中海での交易活動もティルスを中心に展開されるようになった。前9~8世紀はフェニキア人の地中海に於ける活動が最も盛んであったが、前8世紀後半になるとアッシリア帝国が地中海東岸にまで及び、フェニキアの諸都市もその支配下に入った。

カルタゴの建設

 ティルスを母市として北アフリカの現在のチュニジアに建設されたのがカルタゴである。カルタゴは伝承では前814年に建設したと伝えられているが、ティルスから大量のフェニキア人がカルタゴに殖民した背景には、そのころのアッシリア帝国の圧迫があったことが考えられる。他に、イベリア半島のカディス、バルセロナなどもフェニキア人が築いたとされている。一部はジブラルタルを超えてアフリカ西岸にも進出した。前8世紀になると、同じように地中海での植民活動を積極的に展開し始めたギリシア人との抗争が始まった。 → 地中海世界

アケメネス朝ペルシアの支配

 前6世紀前半には新バビロニア王国ネブカドネザル2世がティルスを13年にわたって包囲し、攻略した。しかし、新バビロニアの支配は永続せず、前6世紀後半からはアケメネス朝ペルシア帝国の支配に代わった。その王キュロス2世は征服地に対し比較的寛容であったので、フェニキア人の諸都市もその保護の元で地中海交易を継続した。

ペルシア戦争

 フェニキア人は前6世紀後半からのアケメネス朝ペルシアの時代には、その保護を受けて地中海貿易で活躍し、ペルシア帝国に海軍力を提供した。ペルシアと結びながら、ギリシア人やローマ人との間で商業支配をめぐって抗争することになる。ペルシア戦争も、ギリシア人とフェニキア人の対立という一面がある。フェニキア人の国カルタゴは、前480年のサラミスの海戦と同じ年にシチリア島のギリシア人と戦い敗れている(ヒメラの戦い)。

フェニキア人国家の消滅

 前4世紀には、マケドニアのアレクサンドロス大王は東方遠征の途次、地中海東岸のフェニキア人諸都市がペルシア帝国と結ぶことを恐れ、自ら征服活動を展開、多くの都市は戦わずに降伏、ティルスのみは抵抗したが前332年に陥落した。アレクサンドロスによってペルシア帝国が滅ぼされ、大王死後は、幾つかのヘレニズム国家に分割されたが、フェニキア人の諸都市はその一つセレウコス朝シリアが支配することとなり、かつての繁栄を失っていった。
 カルタゴは西地中海を支配する通商国家として存続していたが、イタリア半島中部の都市国家ローマが次第に有力となると、特にシチリア島をめぐって両者の利害は対立するようになり、前3世紀になると両者の抗争はポエニ戦争(前264~前146年、ローマ人がフェニキア人をポエニと呼んだことからきている)となって激突した。結局カルタゴはその戦いに敗れ、西地中海におけるフェニキア人の国家は消滅する。
 前63年にセレウコス朝シリアが滅亡したことにより、フェニキア人諸都市はローマの属州に組み込まれることとなった。こうして前1世紀までにローマ帝国が地中海を「われらの海」として支配するに至り、フェニキア人の存在もその世界に呑み込まれてしまうこととなった。

参考 フェニキア人のアフリカ周航?

 航海術に巧みであったフェニキア人は、前600年頃にはエジプト王ネコの命令でフェニキア人がアフリカ海岸を探検、また前6世紀後半にはカルタゴ人がアイルランドに達したとされている。<『新編西洋史辞典』創元社 フェニキア人の項>
 フェニキア人は、さらにアフリカ大陸を初めて周航したともされている(2005年の歴史能力検定・世界史1級問題)。
 この「フェニキア人のアフリカ周航」の出典はヘロドトスの『歴史』巻4、24節にある。そこにはエジプトのネコス王(ネコ2世 前610~595 とされている)が、ナイル河からアラビア湾に運河を造ろうとして失敗した後、フェニキア人に「リビア(アフリカのこと)」の地を東廻りで航海し北の海(地中海)を経てエジプトに戻ることを命じたことが記されている。
(引用)さてフェニキア人たちは紅海から出発して南の海(アラビア海)を航行していった。そして秋になれば、ちょうどそのとき航行していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈り入れの時まで待機したのである。そして穀物を刈り入れると船を出すとというふうにして二年を経、三年目に「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡のこと)を迂回してエジプトに帰着したのであった。そして彼らは――余人は知らず私(ヘロドトス)には信じ難いことではあるが――リビアを航行中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった。<ヘロドトス/松平千秋訳『歴史』中 岩波文庫 p.28>
 航行中太陽が常に右手にあったと言うことは、南半球を東から西に航海したことになる。これがフェニキア人が「アフリカ大陸を初めて周航したといわれる」ことの根拠である。しかし、ヘロドトス自身、「信じ難い」と言っているし、その記事に続けてカルタゴ人がリビア(アフリカ)回航を試みて失敗したカルタゴの「ハンノの航海」についても触れている。ハンノの航海はポリビオスの歴史書によれば西回りで「アフリカ西岸に到達」したのであって、周航に成功したわけではない。したがってフェニキア人のアフリカ就航はあくまで伝説と捉えるのが正しいだろう。

Episode カルタゴ人の「ハンノの航海」

 カルタゴの提督で航海家のハンノは前500年頃、60隻の50櫂船を指揮して約3万人もの男女と共に「ヘラクレスの柱」と言われたジブラルタル海峡を越えて西アフリカに向かい、現在のカメルーンあたりに到達したという。この話を伝えるのはギリシア人の歴史家ポリビオスがフェニキア語で書かれたハンノの航海報告を写し取り、そのギリシア語訳が後世に伝えられたためであるが、登場する地名は現在のどこに当たるか推定困難なものが多く、この航海記の信憑性を認めない意見もある。<『世界史を読む事典』朝日新聞社 ハンノの航海、およびハンノの項>
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1章1節 オ.東地中海世界
書籍案内

佐藤育子・栗田伸子
『通商国家カルタゴ』
攻防の世界史 2009
講談社学術文庫 2016

朝日新聞社編
『世界史を読む事典』
1994 朝日新聞社