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コリント戦争/大王の和約

前4世紀初め、ギリシアのポリス間の内戦でスパルタとアテネなどの戦争。前386年、ペルシア帝国の介入により「大王の和約」が成立して講和した。

 前395年~386年、ギリシアのスパルタの覇権に対して、アテネテーベコリントの三ポリスが同盟して戦った戦争。ペロポネソス戦争の勝利によってギリシアの覇権を握ったスパルタに対し、それを危険視したアケメネス朝ペルシア帝国が三ポリスに経済援助を行ったとされる。三ポリス同盟側は一時勝利を収め、今度はアテネの復興を恐れたペルシア帝国がスパルタの要請を受けて仲介に乗り出し、いわゆる「大王の和約」で終結させた。ポリスの衰退期のペルシア帝国の介入の一例。その後ギリシアではテーベが台頭するが、全体として弱体化し、北方のマケドニアの台頭を許すこととなる。

大王の和約

  前386年、アケメネス朝ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世が、ギリシアのスパルタと、アテネ・テーベ・コリントの同盟の間のコリント戦争の仲介して締結した和約。和約と言うが事実上はギリシアの諸ポリスがペルシア帝国と締結した誓約である。小アジアとキプロス島はペルシア帝国領と定められ、ペルシア戦争の発端となったイオニア諸市は完全にペルシア領に復した。他のギリシア本土のポリスは独立が認められたが、侵略者に対してはペルシアと共に戦うことが規定され、スパルタがこの条約実効の監視役という立場となった。
 コリント戦争を終わらせたこの講和条約には本土とエーゲ海域の全ギリシア都市国家が参加した「大王の和約」(スパルタの使節の名をとってアンタルギダスの和約ともいわれる)は、諸ポリスの自由と自治が保障されるいっぽう、小アジアのギリシア人は完全にペルシア帝国に服属することを約したものであった。このようにギリシアのポリスの相互の争いに乗じてペルシアが強い力を付与された形だが、ペルシアの実態はすでに弱体化しており、間もなくテーベスパルタ自身がこの和約を破り単独行動を行うようになる。また、大王の和約に見られた普遍的平和条約の枠組みは、前337年、ギリシアを制圧したマケドニアフィリッポス2世がギリシア諸国間に取り決めさせたコリントス同盟に継承された。
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第1章2節 ク.ポリスの変質