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キリスト教の公認

313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝が出したミラノ勅令によってキリスト教が公認された。

313年 ミラノ勅令

 キリスト教はローマ領内に伝えられ、ペテロパウロなどの布教によって広がっていったが、ローマ帝国は、皇帝崇拝を拒否する異教であるとして、厳しくキリスト教を弾圧した。しかし、キリスト教は社会の下層民にひろがり、さらにローマの市民・上層民にも信者が現れるようになっていくと、ローマ帝国の軍人皇帝時代の3世紀の危機といわれた混乱から帝国支配の安定を回復しようとしていたコンスタンティヌス帝は、キリスト教を認めることに踏み切り、313年ミラノ勅令を発してキリスト教を公認した。

キリスト教公認の経過

 厳密に言うと、このときはコンスタンティヌスは西の正帝で、おなじく西の正帝を名のっていたリキニウスとミラノで会見し、両者共同で公布したもの。勅令の主旨は、いわは「宗教寛容令」であり、いかなる宗教の信仰も認めるもので、キリスト教もその一つとつとして認められた。それによって1世紀のネロ帝以来続いたキリスト教に対する迫害が終わりを告げ、信仰を隠す必要が無くなったので、帝国領内各地の教会がそれぞれ表だった活動を開始した。
 また、リキニウスはその後、ローマ帝国の東の正帝を倒して、その地位につくが、一転してキリスト教否認に戻り、弾圧を再開する。それに対してコンスタンティヌスは大軍を率いて攻撃し、324年のアドリアノープルの戦いでリキニウス軍を破り、ローマ帝国の統一に成功した。これによって、ミラノ勅令のキリスト教公認が全ローマ帝国に及ぶこととなった。

ニケーア公会議

 しかし、そのころすでにイエス時代から約300年経っており、その教義に関して、また儀式のあり方などでも、さまざまな分派が現れており、キリスト教内部の対立も同時に表面化していた。特に、イエス=キリストの神性を認めるかどうか、で深刻な対立が生じていた。そのため、コンスタンティヌス帝は自らの手で教義の統一を図る必要が出てきた。そこで325年にニケーア公会議を自ら主催して開催し、教義の統一を図った。そこでは、アタナシウスの唱える、イエス=キリストは神の子であり神性を有するという考えが正統とされ、アリウスの説く、イエスを人の子とする考えは異端であると断じられた。
 キリスト教はその後、教義をめぐっての争いが続き、さらにユリアヌス帝のときは再び弾圧されることになったが、392年テオドシウス帝によってローマ帝国の国教とされ、国家宗教となった。
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ノートの参照
1章3節 カ.西ローマ帝国の滅亡